良い写真とは?写真評論の意義と限界
星景写真家の湯淺光則氏が、noteに連載中の記事で「良い写真とは?」という考察を掲載されています。
「よい写真」とは何か。「見て良かった」と思う写真とは。「さてさて、いつも結論を出すのが難しいテーマばかりですが、とにかく「良く考えてみる」「みんなで討論してみる」という事が大事なのではないでしょうか?」
湯淺光則@星景写真家|noteよりピックアップ。https://t.co/PtGVSFmwHQ— 天リフ編集部 (@tenmonReflexion) September 15, 2018
湯淺光則@星景写真家|note よい写真とは
https://note.mu/noriyuasa/n/nf3759a6c1b68
良い写真って、どういう写真でしょうね。
時々、話題になりますが、なかなか結論や定義というものを
聞いた事がないような気がします。
非常に納得感を感じる部分も、これはちょっと不用意に煽り過ぎているなと感じる部分もありますが、冷静に読めば得るところの多い問題提起だと思います。ただ、人によっては「もう二度と読みたくない」と思うこともあるでしょう。それも含めて、編集子の個人的見解を以下に記します。
誰もが撮るのに忙しい
芸術にせよスポーツにせよビジネスにせよ、現場の前線・時代の最先端で活躍する人たちがいます。そしてその活動を文章や日常の会話の中で間接的に「評論」として語る人たちがいます。
大きなマーケットでは、この「評論」もまた大きなマーケットとなります。大谷選手のように160kmの速球を投げられるわけでも150mのホームランを打つことができるわけでもない我々凡人にとっては、「評論」もまた何かを仮想体験する上で意味のある存在でしょう。
ところが「写真」はどうでしょうか。誰もがプロとあまり変わりない機材を手にすることができるようになり、自由に撮ることができる。天賦のフィジカルも大きな組織も必要ない。自由な発想と感性を武器に個人の力量と才覚だけで「良い写真」を量産できるようになった。今はそんな時代と言えるでしょう。
湯淺氏が「良い写真とは?という問いの結論や定義を聞いたことがない」と述べられているのはまさにその状況の裏返しではないでしょうか。「写真に関するプレイヤーは、皆撮るのに忙しい」のです。(ネットにアップしたりイイネするのに忙しい、という別の側面もありますが)
「写真評論」の意義について
どんな分野であれ、どんなレベルであれ、評論家よりもプレイヤーがリスペクトされるべきです。これはメディアの端くれを運営する編集子の持論であり基本姿勢でもあります。評論家がプレイヤーより偉くなった世界は衰退期にある残念な世界です。
大衆から評価・消費される今の写真において、「高い評価」というのは個人の嗜好の集合に過ぎない、という決定的な限界とそこに同時に存在する無限の可能性こそが面白いんだと思っているんですけどね。
— galmin@星あかりの下 (@009ciYyQcdJGIqe) September 15, 2018
一方で、発展期にあるダイナミックな世界では、無限の多様性の中からいろいろな良いもの悪いものが生まれて大きくなっていくでしょう。その中に「評論」というものも存在し、一定の意義があるはずです。その意味で湯淺氏が始められた「個別の写真作品そのものを語らない議論」もまた一定の意義があるものと考えます。プレイヤー全盛の今の段階でそういう提起をされた湯淺氏には敬意を表するものです。
一つだけ、湯淺氏のコンテキストを読む人には、この評論を「評論家よりもプレイヤーがリスペクトされるべき」という原則論(私見を原則にすり替えました^^;)を越えて過剰に反応されないように強く望みます。ぶっちゃけ、評論に惑わされず、自分の写真を撮ることに邁進してほしい^^ ヒマなときや行き詰まったときには良い思考の燃料になるかもしれませんが。
写真作品として高く評価される写真
とはいえ、湯淺氏がまとめられた以下のリストは大いに参考になります。全文を引用させていただきます。
「印象に残る写真」
「作者の思いが伝わる写真」
「撮った印象のままが表現できている写真」
「共感できる写真」
「思わずほっこりする写真」
「インパクトのある写真」
「ドラマチックな写真」
「オリジナリティのある写真」
「決定的瞬間をとらえた写真」
「想像を掻き立てる写真」
「人に感動を与える写真」
「ストーリー性のある写真」
「今まで見たことがない写真」
「ずっと見ていたい写真」
「よい写真とは」という漠然とした問いをこのような形で「言語化」することは我々凡人にとっては大いに有益です。
多くの人にメリットをもたらす「よい評論」もまた「よい作品」同様にクリエーターの汗と情熱が必要です。よい評論もまた、よい作品と同じように評価されリスペクトされるべきでしょう。(そのときは「よい評論とは?」という議論が始まることに・・なるのでしょう^^)
評論は評論であり、作品ではない
一方で、言語化で生まれる新たな矛盾〜創意工夫と奇をてらうことの違い、被写体の力と撮影者の力、個性とワンパターンなど〜にも触れられています。言語化すると言語に縛られる。これは全ての評論、作品にあてはまることでしょう。
繰り返しになりますが、評論は評論であって作品ではありません。評論を参考にしたい人は参考にすればいいし、作品や作者の考えが評論に縛られる必要はどこにもありません。
さてさて、いつも結論を出すのが難しいテーマばかりですが、
とにかく「良く考えてみる」「みんなで討論してみる」という事が大事なのではないでしょうか?
時代は今写真に「評論」を求めているのか。よくわかりません^^;でも、「よく考えてみる」ことはいつも重要だと思います。「みんなで討論する」とどうなるのかもよくわかりません^^;; 少なくとも「全員参加!」ではないでしょうね。 https://reflexions.jp/tenref/orig/2018/09/16/6394/良い写真とは?https://reflexions.jp/tenref/orig/wp-content/uploads/sites/4/2018/09/9f3f0eaaf68e44916a7036fc00ff1f62.jpghttps://reflexions.jp/tenref/orig/wp-content/uploads/sites/4/2018/09/9f3f0eaaf68e44916a7036fc00ff1f62-150x150.jpg写真コラム星景写真家の湯淺光則氏が、noteに連載中の記事で「良い写真とは?」という考察を掲載されています。 https://twitter.com/tenmonReflexion/status/1040869276469518336 湯淺光則@星景写真家|note よい写真とは https://note.mu/noriyuasa/n/nf3759a6c1b68 良い写真って、どういう写真でしょうね。 時々、話題になりますが、なかなか結論や定義というものを 聞いた事がないような気がします。 非常に納得感を感じる部分も、これはちょっと不用意に煽り過ぎているなと感じる部分もありますが、冷静に読めば得るところの多い問題提起だと思います。ただ、人によっては「もう二度と読みたくない」と思うこともあるでしょう。それも含めて、編集子の個人的見解を以下に記します。 誰もが撮るのに忙しい 芸術にせよスポーツにせよビジネスにせよ、現場の前線・時代の最先端で活躍する人たちがいます。そしてその活動を文章や日常の会話の中で間接的に「評論」として語る人たちがいます。 大きなマーケットでは、この「評論」もまた大きなマーケットとなります。大谷選手のように160kmの速球を投げられるわけでも150mのホームランを打つことができるわけでもない我々凡人にとっては、「評論」もまた何かを仮想体験する上で意味のある存在でしょう。 ところが「写真」はどうでしょうか。誰もがプロとあまり変わりない機材を手にすることができるようになり、自由に撮ることができる。天賦のフィジカルも大きな組織も必要ない。自由な発想と感性を武器に個人の力量と才覚だけで「良い写真」を量産できるようになった。今はそんな時代と言えるでしょう。 湯淺氏が「良い写真とは?という問いの結論や定義を聞いたことがない」と述べられているのはまさにその状況の裏返しではないでしょうか。「写真に関するプレイヤーは、皆撮るのに忙しい」のです。(ネットにアップしたりイイネするのに忙しい、という別の側面もありますが) 「写真評論」の意義について どんな分野であれ、どんなレベルであれ、評論家よりもプレイヤーがリスペクトされるべきです。これはメディアの端くれを運営する編集子の持論であり基本姿勢でもあります。評論家がプレイヤーより偉くなった世界は衰退期にある残念な世界です。 https://twitter.com/009ciYyQcdJGIqe/status/1040913474291810304 一方で、発展期にあるダイナミックな世界では、無限の多様性の中からいろいろな良いもの悪いものが生まれて大きくなっていくでしょう。その中に「評論」というものも存在し、一定の意義があるはずです。その意味で湯淺氏が始められた「個別の写真作品そのものを語らない議論」もまた一定の意義があるものと考えます。プレイヤー全盛の今の段階でそういう提起をされた湯淺氏には敬意を表するものです。 一つだけ、湯淺氏のコンテキストを読む人には、この評論を「評論家よりもプレイヤーがリスペクトされるべき」という原則論(私見を原則にすり替えました^^;)を越えて過剰に反応されないように強く望みます。ぶっちゃけ、評論に惑わされず、自分の写真を撮ることに邁進してほしい^^ ヒマなときや行き詰まったときには良い思考の燃料になるかもしれませんが。 写真作品として高く評価される写真 とはいえ、湯淺氏がまとめられた以下のリストは大いに参考になります。全文を引用させていただきます。 「印象に残る写真」 「作者の思いが伝わる写真」 「撮った印象のままが表現できている写真」 「共感できる写真」 「思わずほっこりする写真」 「インパクトのある写真」 「ドラマチックな写真」 「オリジナリティのある写真」 「決定的瞬間をとらえた写真」 「想像を掻き立てる写真」 「人に感動を与える写真」 「ストーリー性のある写真」 「今まで見たことがない写真」 「ずっと見ていたい写真」 「よい写真とは」という漠然とした問いをこのような形で「言語化」することは我々凡人にとっては大いに有益です。 多くの人にメリットをもたらす「よい評論」もまた「よい作品」同様にクリエーターの汗と情熱が必要です。よい評論もまた、よい作品と同じように評価されリスペクトされるべきでしょう。(そのときは「よい評論とは?」という議論が始まることに・・なるのでしょう^^) 評論は評論であり、作品ではない 一方で、言語化で生まれる新たな矛盾〜創意工夫と奇をてらうことの違い、被写体の力と撮影者の力、個性とワンパターンなど〜にも触れられています。言語化すると言語に縛られる。これは全ての評論、作品にあてはまることでしょう。 繰り返しになりますが、評論は評論であって作品ではありません。評論を参考にしたい人は参考にすればいいし、作品や作者の考えが評論に縛られる必要はどこにもありません。 さてさて、いつも結論を出すのが難しいテーマばかりですが、 とにかく「良く考えてみる」「みんなで討論してみる」という事が大事なのではないでしょうか? 時代は今写真に「評論」を求めているのか。よくわかりません^^;でも、「よく考えてみる」ことはいつも重要だと思います。「みんなで討論する」とどうなるのかもよくわかりません^^;; 少なくとも「全員参加!」ではないでしょうね。編集部山口 千宗kojiro7inukai@gmail.comAdministrator天文リフレクションズ編集長です。天リフOriginal
「よい写真」や「好ましい写真」を構成できるような客観的条件は、主観とパラメータが多すぎて言語化するのは困難でしょう。過去の名作と呼ばれるものでも「インパクトがあるけど、現在の社会状況からするとアウト(法に抵触する)だなあ」と感じる写真表現もそこそこあるように、時代とともに変遷するパラメータもあるでしょうね。私自身は、写真を作り出す人の「表現の先駆者としての凄さ」はエピゴーネンの数で測定することも可能じゃないかなあ、とも考えます。
ただ、写真を含むいろんな表現物を「愉しむ(「楽しむ」ではなく)」ための前提、つまり鑑賞者側の前提条件(分野知識や経験、文化や語学など文脈や背景の理解の度合い)や、そこから鑑賞者を慮ることによる制約は存在し、その制約があまりにも強くなってくると、作る側は「趣味として愉しむ」というより「生産活動やマーケティング」というスタンスに近くなってくるのかな、とぼんやり考えています。
興味深い洞察です。現代の写真という表現の絵画や文章といった他のものと違いは、生産側のコミュニティがずっと大きくしかも流動的であること、鑑賞者と表現者の立場が頻繁に入れ替わることがあるのかもしれませんね。
写真表現の言語化については、小林秀雄のような偉大な人が一人出るだけでがらりとかわるような気もしますし、ご指摘の通り「そもそも無理」なのかもしれません。それを誰が求めているのか、という問題もありますし。
つらつら書きますが、「表現者の立場」と「鑑賞者の立場」を分けて考えてみるのも何かヒントになりそうな気もしますね。ありえない絶景になんとなく感動してしまうのは単に鑑賞者が未熟だからなのか、そうでなく本質的な何かがあるのか、など。
映像論とか写真表現を語る上で、以下の書籍あたりを引用すると、実にハイブローっぽくエエカッコになります(笑)。多木浩二さんの著作や翻訳は定番であり、写真や映像を作る経験がある人の方が読みやすいはずです。
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多木浩二:『写真論集成』『写真の誘惑』
中平卓馬:『なぜ植物図鑑か』
ヴァルター・ベンヤミン:『複製技術時代の芸術作品』『写真小史』
ロラン・バルト:『明るい部屋―写真についての覚書』
スーザン・ソンタグ:『写真論』
新藤健一:『新版写真のワナ』
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ただ、いずれの書籍も執筆時の時代背景のせいか、左翼的な思想が頻繁に出てきます(書籍を出す上でのその時代の作法なのでしょう。逆に、映画とか映像を手がける人に左翼的な思想へ寄っている人が多い理由もなんとなく理解できる…かも)。政治思想的な言葉をうまくノイズカットして読むことになるでしょう。
少なくとも10年より前の、下手すれば40年くらい前の書籍ばかりですが…。
「良い写真」の定義は、たとえ「みんな」で話し合ったとしても、そもそも答えが出なさそうなものでしょう。改めてそこに釣られてみます。
引用元にある『写真に良し悪しはない、写真は自由だ、好みの問題だ、とか言っていたりします。…(中略)…そんな事言ってる人の写真で「見て良かった」と思う写真はまずありません。』は、「写真を公開するにあたり、(湯浅さんが認める職業的な)作法から(そもそも写真を作る以前の段階から)外れまくっているものは(作品として)見るに耐えない」ということではないかと感じます。
他者から評価を得ることを目的として、写真画像の作成から一般公開する一連の過程では、何らかの作法やルールに沿っておく方が見る側にとってラクでしょう。ただし、そのルールや作法(一種の制約)は、わりに膨大で、ぼーっとしていて、強制力があるわけでなし、不変なものでも絶対的なものでもなく、(法律を除いては)全て明文化され学習できるものでもなく、他者からダメ出しされたり、試行錯誤したり、自己探求したり、自分では自由にならない周辺環境を受け入れたり、自己反省しながら体得するものが相当にあるように思います。
その作法理解や気づきへの努力を放棄して「写真は自由だー」なんてうそぶいても「チラ裏」で終わりだし、ことごとく「●●のときは、どうしたらいいですか」とばかりに思考をいちいち他人へ丸投げする人は「教えてクン」とか「自称初心者」の枠に望んで収まっていたい人として結論づけることができます。いずれも他人からの評価云々以前に、わざわざ人前に出さなくてもいいでしょ、というレベルですね。
タニマチや取り巻き、お弟子さんを多く抱えていて、そういう人たちを組織化・階層化したい人は、作法を経典化(作法の部分的明文化(書籍化)→家元化→師範代制度→部分的委任)したくなるでしょうけど、湯浅さんがそれを目指しているとは考えにくいですね。
湯淺氏が「そんな写真を人に見せるな」と書かれた趣旨は、当方もそうだと思います。「○○は自由」「楽しく○○すればよい」というのは最上位の真理だとは思いますが、一般的なルールや作法、技術を学ぶ過程では、仮想的であれ実在であれ、「師」なるものに学ぶ必要があると思います。「私は初心者だから」から「○○は自由」に逃げる自己防御は現代の病気の一つではないかとさえ思います。
一方で写真の世界には「孤独なお山の大将」がちらほら見受けられるのも残念なところですね。若くて才能のある人たちから、そんなものをとっとと蹴散らして、実績も見識もある権威に成り上がる人が出てくるだろうと思っています。