何かと攻めているアサヒカメラですが、今月も話題の記事がありました。SNSでいろいろと話題になっているようで、不肖・天リフ編集長もひさしぶりにアサヒカメラ誌をkindleストアで買って読んでみました。

その感想を一言でいえばこのツイートになります。



PRTIMES「インスタ映え」にアサヒカメラが怒りの一撃!ギラギラした風景写真はもう要らない。
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000769.000004702.html

こちらのプレスリリースの「営業トーク」が可燃成分満載。大いに期待していたのですが、肩すかしを食らった感じです。米美知子さんのことは筆者は実はよく知らないのですが(*)、書かれている問題意識には大いに同意するものもあります。でもこんなある意味当たり前のことを深く掘り下げずに(談)という形で語る(という形に編集される)のは正直どうなのでしょうか。

(*)知人の中には「米さんが言うと重みがある。流石の内容だ、身が引き締まる」のような意見もあり、筆者が米美知子さんのことを知らなすぎるだけなのかもしれません。

はっきりいって、これが今のアサヒカメラのレベルなのかとがっかりする思いでいっぱいです。インスタ厨にもの申すのなら「合成」についても踏み込まないとチキンです。自然と不自然、虚構と現実の狭間を無限に拡大する「デジタル写真の世界」に正面から向き合う写真メディアはどこにもないのでしょうか。

と、えらそうなことをかましましたが、この問題提起について全力で意見したいと思います。

「MAXレタッチ」は誰もが一度は通る道

文章を書くことは楽しい作業でもある。生きることの困難さに比べ、それに意味をつけるのはあまりに簡単だからだ。

十代の頃だろうか、僕はその事実に気がついて一週間ばかり口もきけないほど驚いたことがある。(中略)あらゆる価値は転換し、時は流れを変える・・・そんな気がした。

それが落とし穴だと気づいたのは、不幸なことにずっと後だった。

(村上春樹「風の歌を聴け」より)

文豪・村上春樹が現代のデジタル写真界隈の未来を予見していたのかどうかは知りませんが「創作」という行為の本質を象徴する言説です。

左)Jpeg撮って出し 右)盛り盛りレタッチ EOS20D EF300mmF2.8L IS

筆者が、「後処理自由自在のデジタル写真」に気がついて3分ばかり口がきけなくなったのは、一眼デジカメを購入して間もない2005年のこの画像でした。

この後夕陽が沈む頃には素晴らしい夕焼けになったのですが、焼ける前の画像でも色温度を変えて強調すればこの通り。色温度をいじり、彩度とコントラストを上げて夕焼けを盛るのはレタッチの初歩です。

左)撮って出し 中)コントラスト+20、彩度+35の「自然な」レタッチ、右)盛り盛りHDR+マスク処理 ゴッホの「糸杉と星の見える道」のリスペクトです。α7S EF24mmF1.4L F2.8 15秒 ISo3200

その10年後、ようやく筆者はPhotoshopにデビューし、マスク処理やHDR処理などを知りました。その時は1時間ばかり口がきけませんでした。その劇的な効果の例がこの画像です。

左)ナチュラル仕上げ 右)インスタ風味仕上げ

レタッチ技術は日進月歩です。「トーンカーブ」「カラーバランス」「彩度」だけだった牧歌的時代はとうに過ぎ、「明瞭度」「かすみの除去」「テクスチャ」「シャドウ」「ハイライト」「自然な彩度」など、スライダー1個でいじれるPhotoshopのパラメータはいくつもあります。そればかりか、マスク・フィルターを駆使すればもうバリエーションは無限です。

そんな風にレタッチ技術が盛られていく中、「レタッチは否定しない」という安全地帯に立ちつつ「彩度+20は自然だが彩度+40は不自然である」と「警鐘」を鳴らすというのは、あまりに牧歌的といわざるを得ません(*)。

(*)あの記事のスペースでレタッチ論を語るわけにもいきませんし、象徴的な形で「彩度」に絞ったのかもしれませんが、周回遅れ感が満載です。

左)アプリsnowでMAXレタッチ。ビジュアル系を強く意識しました。右)ふつうのレタッチ。

そして今。

筆者はようやく神アプリ「snow」を手にしました。まだ口がきけません。なんですか、これ。たったの3分間クッキングで、これまで見たことのない自分に出会えました。これは120%の奇跡です。

スライダーが、アプリがそこにあるとき、それは動かされるためにあります。誰もが「行きすぎ」を経験します。行きすぎないと行きすぎたこともわかりません。筆者の知る限り(天体写真・星景写真という狭い分野ですが)、ほぼ全てのフォトグラファーは「MAXレタッチの時代」を経て(15秒で過ぎる人もいます^^)個々のスタイルを確立していきます。インスタグラムのオーディエンスもいずれ変わってゆく(*)ことでしょう。

(*)もしそれが変わらず、それがあるべき姿でないとするならば、その時こそ著名カメラマンや写真メディアはそのことについて堂々と論陣を張るべきです。

良いレタッチとは「上手な嘘」

「男は嘘がうまいネ、女は嘘が好きだネ」と歌ったのは中島みゆき様ですが、この言葉にも「虚構」に対する真理が含まれています。

不都合な真実よりも、都合のよい嘘を見たい。騙すなら墓場まで。みんな大好きベルビア(ときどきフォルティア)。「写真(真を写す)」という不自由な名前をまとった「Photograph」ですが、「写実主義」であれ「アート」であれ、嘘のない写真はこの世にはほとんどありません(*)。

(*)科学的なアプローチなら「嘘」はなくなりますが、さまざまな前提と再現性を明確にすることが前提となります。

左)元画像 中)シャドウ持ち上げ+30、明瞭度+30 右)マスクでトーンカーブ持ち上げ。

上手な嘘と下手な嘘の例。左が元画像です。

右は範囲選択ツールでシャドウを選択しトーンカーブで持ち上げています。選択の境目をごまかすためにマスクをぼかしていますが、「いかにもマスク処理しました」的な不自然な結果になってしまいました。

中は黒つぶれをシャドウと明瞭度で持ち上げたPhotoshopのCamera rawだけの処理。こちらのほうがよっぽど上手な嘘(*)です。さすが「みんな大好きPhotoshop」、嘘がうまいネ!

(*)「YOUのデジタルマニアックス」で指摘されていますが、明瞭度をはじめレタッチツールの「賢い系」の機能であったとしても、盛りすぎると「嘘」がバレバレです。

デジタル写真のこの10年ほどの流れの中で起きている一つの大きな変化(*)は「誰でも簡単に上手な嘘がつけるようなった」ことではないでしょうか。その意味では米美知子さんが「レタッチテクニックに走るばっかりで、自然風景がもたらす本来の感動を追いかける人が少ない風潮(超訳)」を嘆かれることには、筆者も大いに共感するものがあります。

(*)連載第3回で触れる予定です。

しかし「楽を覚えてしまった人間は元に戻れない」のは、人類皆同じです。楽を覚えてダメになるような写真家は、楽を覚えなくてもダメです。問題はそこではありません。楽を覚えて何が悪いというのでしょう。

人間の視覚とデジカメの画像はそもそも同じではない

出典)https://ja.wikipedia.org/wiki/網膜

 

「嘘」を原理主義的に突きつめていくと、人間の視覚そのものにすでに「嘘」があります。網膜には、カメラのイメージセンサーのR,G,B画素に相当する「L錐体」「M錐体」「S錐体」という視覚細胞がありますが、B画素に相当するS錐体は他の細胞の1/10ほどしかありません。生物10億年の進化の歴史の結果、B画素なんてほんの少しで十分ということなのでしょうか。デジタルカメラは「馬鹿正直」なのかもしれませんね。



そればかりか、実はデジカメでは「紫盲」です。人間の眼は波長430nm付近の光を「紫(青+赤)」に感じますが、これは赤を感じるS錐体がこの波長430nm付近にも感度を持っているためです。一方でデジタルカメラのR画素は青い光には全く感度がありません。デジカメでは人間が感じる「波長430nmの紫」を表現できないのです(*)。

(*)参考)http://web.archive.org/web/20100206061515/http://f42.aaa.livedoor.jp/~bands/purple/purple.html

さらに、視覚には個人差もあります。あなたがその眼で見ているものははたしてどこまで「真実」なのか。デジカメと人間の眼は同じではなく明らかな差がある。そんな中で「自然であること」「嘘でないこと」を原理主義的に主張することは不可能だといえるでしょう。

良い嘘と悪い嘘

嘘は、内容やその意図によっては、犯罪になったり嫌われたりします。詐欺師の常套句は「騙すつもりはなかった」ですが、写真でもそれは似たようなものです。

悪意のある嘘は、文字通り「悪」なるものです。しかし、嘘を「虚構」と読みかえたとき、それは弱々しい「真実」以上の強い力を持つことがあります。強い力が込められた創作(虚構)は、単純な善悪を越えた存在になり得るはずです。

嘘と真実の間には、イメージセンサーと同じ8bit〜14bitくらいのグラデーションがある。嘘と真実が描く映像そのものが写真である、というのは言い過ぎでしょうか。

「良い嘘」と「悪い嘘」の境目がどこにあるのかについては、個人の尊厳や生き方にもかかわるあまりに普遍的なテーマです。本稿では手に負えないので割愛しますが、本稿の主張の一つは「自然」と「不自然」の境目がどこにあるのかというテーマもまた、それとおなじくらい簡単ではない、ということです。スライダーの位置がどのへんにあるのか、というような単純で牧歌的な問題ではありません。

良い嘘と悪い嘘を決めるもの

今回のアサヒカメラの記事の「否定派」の意見の代表のひとつがこのツイートだと思います。「写真くらい自由に撮らせろ」。この言葉は別の言い方をすれば「良い悪いをなんであんたに決められないといけないの?」だと思います。

良い嘘と悪い嘘が仮にあるとして、それは誰が決めるのか。誰に決めることができるのか。これまで誰が決めてきたのか。これから誰が決めるのか。

この構図を極端に単純化すると、「写真のよしあし」をが決めてきた存在が、「著名カメラマン」や「権威ある専門誌」「フォトコン」から、SNSの暴力的なまでの拡散力と「イイネ」数に変わってきている、といえるのではないでしょうか。

筆者はこのどちらについても、良い面と悪い面があり、そしてそれこそが「写真メディア」が今、斬り込むべきテーマの一つであると考えています。

合成写真

Tower dream

本間 昭文さんの投稿 2015年6月10日水曜日

冒頭に触れたように「レタッチしすぎの罠」について触れるなら、合成写真についても触れないとチキンです。こちらの作品は4年前、東京カメラ部の投稿からです。

この頃、筆者は合成写真を忌み嫌っていました(*)。その代表作がこれです。

(*)勢い余ってこんなグループも作りました。現在休眠中です。

山口 千宗さんの投稿 2016年12月22日木曜日

煽り文ではアサヒカメラ様をチキン呼ばわりしてしまいましたが、実は2017年1月号に素晴らしい特集を組まれています(*)。姑息な合成写真ではなく、正々堂々と、合成写真の「表現」で勝負せよ、と。

(*)今回もこのクオリティを期待していたのですが。

現在の筆者の立ち位置は「合成とレタッチに本質的な差はない」「善し悪しは作者と作品が決めるもの」です。自分自身はコラージュ合成はやりませんが、やる人はそれで別に構わないと思います(*)。

(*)3年前ならコラージュ合成をしれっとSNSにアップしても「奇跡の絶景だ!」という絶賛の嵐が巻き起こったでしょうが、今ならあからさまなバレバレの合成はSNSでも高い評価にはならないでしょう。

そもそも、いかに合成を否定しようとも、ある作品が合成であるかどうかを見抜くことは困難になっています。合成写真が奇跡の風景と絶賛されることも、逆に合成でない写真が「合成だ!」と非難されることさえあります。「合成警察」「レタッチ警察」は労多くして実りのない行為です。「マウント主義者」以外にはオススメできません^^;;

しかし「合成は禁じ手」と考える立場は、写真に対するいくつかの重要な「主義」の中の一つだと考えています。米美知子さんがインタビューで発言されている内容の多くは「自然主義」ないしは「体験主義」と呼ぶべき立場からだと思います。

この立場には筆者は大いに共感するものですが、だとすれば「レタッチ過剰の風潮を斬る」のではなく、なぜ自分はそんな主義で写真を撮るのかを一般ピープルでもわかる形で語ってほしいと思います(*)。

(*)KAGAYAさんのこのインタビュー記事は筆者のひとつの目標でもあります。

まとめ

いかがでしたか?

リリース文?に書いたように、この後全五回で連載する予定です。天体写真・星景写真という、ひじょうに狭い分野でしか活動していない筆者には手に余る連載なのですが、サムネイル画像を作ったらもう勢いが止まらなくなってしまいました^^;;

もうすこしお付き合いください(*)。

(*)アサヒカメラの次月号が出るまでに連載が終わらなかったら、1年かかると思ってください^^

次回は、写真界隈の権威として君臨している?「フォトコン」についてです。お楽しみに! https://reflexions.jp/tenref/orig/wp-content/uploads/sites/4/2019/08/21926834dd6156c7a5cfb359bc38666c-1024x750.jpghttps://reflexions.jp/tenref/orig/wp-content/uploads/sites/4/2019/08/21926834dd6156c7a5cfb359bc38666c-150x150.jpg編集部写真コラム何かと攻めているアサヒカメラですが、今月も話題の記事がありました。SNSでいろいろと話題になっているようで、不肖・天リフ編集長もひさしぶりにアサヒカメラ誌をkindleストアで買って読んでみました。 その感想を一言でいえばこのツイートになります。 PRTIMES「インスタ映え」にアサヒカメラが怒りの一撃!ギラギラした風景写真はもう要らない。 https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000769.000004702.html こちらのプレスリリースの「営業トーク」が可燃成分満載。大いに期待していたのですが、肩すかしを食らった感じです。米美知子さんのことは筆者は実はよく知らないのですが(*)、書かれている問題意識には大いに同意するものもあります。でもこんなある意味当たり前のことを深く掘り下げずに(談)という形で語る(という形に編集される)のは正直どうなのでしょうか。 (*)知人の中には「米さんが言うと重みがある。流石の内容だ、身が引き締まる」のような意見もあり、筆者が米美知子さんのことを知らなすぎるだけなのかもしれません。 はっきりいって、これが今のアサヒカメラのレベルなのかとがっかりする思いでいっぱいです。インスタ厨にもの申すのなら「合成」についても踏み込まないとチキンです。自然と不自然、虚構と現実の狭間を無限に拡大する「デジタル写真の世界」に正面から向き合う写真メディアはどこにもないのでしょうか。 https://twitter.com/asahicamera/status/1165804077499875328 と、えらそうなことをかましましたが、この問題提起について全力で意見したいと思います。 「MAXレタッチ」は誰もが一度は通る道 文章を書くことは楽しい作業でもある。生きることの困難さに比べ、それに意味をつけるのはあまりに簡単だからだ。 十代の頃だろうか、僕はその事実に気がついて一週間ばかり口もきけないほど驚いたことがある。(中略)あらゆる価値は転換し、時は流れを変える・・・そんな気がした。 それが落とし穴だと気づいたのは、不幸なことにずっと後だった。 (村上春樹「風の歌を聴け」より) 文豪・村上春樹が現代のデジタル写真界隈の未来を予見していたのかどうかは知りませんが「創作」という行為の本質を象徴する言説です。 筆者が、「後処理自由自在のデジタル写真」に気がついて3分ばかり口がきけなくなったのは、一眼デジカメを購入して間もない2005年のこの画像でした。 この後夕陽が沈む頃には素晴らしい夕焼けになったのですが、焼ける前の画像でも色温度を変えて強調すればこの通り。色温度をいじり、彩度とコントラストを上げて夕焼けを盛るのはレタッチの初歩です。 その10年後、ようやく筆者はPhotoshopにデビューし、マスク処理やHDR処理などを知りました。その時は1時間ばかり口がきけませんでした。その劇的な効果の例がこの画像です。 レタッチ技術は日進月歩です。「トーンカーブ」「カラーバランス」「彩度」だけだった牧歌的時代はとうに過ぎ、「明瞭度」「かすみの除去」「テクスチャ」「シャドウ」「ハイライト」「自然な彩度」など、スライダー1個でいじれるPhotoshopのパラメータはいくつもあります。そればかりか、マスク・フィルターを駆使すればもうバリエーションは無限です。 そんな風にレタッチ技術が盛られていく中、「レタッチは否定しない」という安全地帯に立ちつつ「彩度+20は自然だが彩度+40は不自然である」と「警鐘」を鳴らすというのは、あまりに牧歌的といわざるを得ません(*)。 (*)あの記事のスペースでレタッチ論を語るわけにもいきませんし、象徴的な形で「彩度」に絞ったのかもしれませんが、周回遅れ感が満載です。 そして今。 筆者はようやく神アプリ「snow」を手にしました。まだ口がきけません。なんですか、これ。たったの3分間クッキングで、これまで見たことのない自分に出会えました。これは120%の奇跡です。 スライダーが、アプリがそこにあるとき、それは動かされるためにあります。誰もが「行きすぎ」を経験します。行きすぎないと行きすぎたこともわかりません。筆者の知る限り(天体写真・星景写真という狭い分野ですが)、ほぼ全てのフォトグラファーは「MAXレタッチの時代」を経て(15秒で過ぎる人もいます^^)個々のスタイルを確立していきます。インスタグラムのオーディエンスもいずれ変わってゆく(*)ことでしょう。 (*)もしそれが変わらず、それがあるべき姿でないとするならば、その時こそ著名カメラマンや写真メディアはそのことについて堂々と論陣を張るべきです。 良いレタッチとは「上手な嘘」 「男は嘘がうまいネ、女は嘘が好きだネ」と歌ったのは中島みゆき様ですが、この言葉にも「虚構」に対する真理が含まれています。 不都合な真実よりも、都合のよい嘘を見たい。騙すなら墓場まで。みんな大好きベルビア(ときどきフォルティア)。「写真(真を写す)」という不自由な名前をまとった「Photograph」ですが、「写実主義」であれ「アート」であれ、嘘のない写真はこの世にはほとんどありません(*)。 (*)科学的なアプローチなら「嘘」はなくなりますが、さまざまな前提と再現性を明確にすることが前提となります。 上手な嘘と下手な嘘の例。左が元画像です。 右は範囲選択ツールでシャドウを選択しトーンカーブで持ち上げています。選択の境目をごまかすためにマスクをぼかしていますが、「いかにもマスク処理しました」的な不自然な結果になってしまいました。 中は黒つぶれをシャドウと明瞭度で持ち上げたPhotoshopのCamera rawだけの処理。こちらのほうがよっぽど上手な嘘(*)です。さすが「みんな大好きPhotoshop」、嘘がうまいネ! (*)「YOUのデジタルマニアックス」で指摘されていますが、明瞭度をはじめレタッチツールの「賢い系」の機能であったとしても、盛りすぎると「嘘」がバレバレです。 デジタル写真のこの10年ほどの流れの中で起きている一つの大きな変化(*)は「誰でも簡単に上手な嘘がつけるようなった」ことではないでしょうか。その意味では米美知子さんが「レタッチテクニックに走るばっかりで、自然風景がもたらす本来の感動を追いかける人が少ない風潮(超訳)」を嘆かれることには、筆者も大いに共感するものがあります。 (*)連載第3回で触れる予定です。 しかし「楽を覚えてしまった人間は元に戻れない」のは、人類皆同じです。楽を覚えてダメになるような写真家は、楽を覚えなくてもダメです。問題はそこではありません。楽を覚えて何が悪いというのでしょう。 人間の視覚とデジカメの画像はそもそも同じではない   「嘘」を原理主義的に突きつめていくと、人間の視覚そのものにすでに「嘘」があります。網膜には、カメラのイメージセンサーのR,G,B画素に相当する「L錐体」「M錐体」「S錐体」という視覚細胞がありますが、B画素に相当するS錐体は他の細胞の1/10ほどしかありません。生物10億年の進化の歴史の結果、B画素なんてほんの少しで十分ということなのでしょうか。デジタルカメラは「馬鹿正直」なのかもしれませんね。 そればかりか、実はデジカメでは「紫盲」です。人間の眼は波長430nm付近の光を「紫(青+赤)」に感じますが、これは赤を感じるS錐体がこの波長430nm付近にも感度を持っているためです。一方でデジタルカメラのR画素は青い光には全く感度がありません。デジカメでは人間が感じる「波長430nmの紫」を表現できないのです(*)。 (*)参考)http://web.archive.org/web/20100206061515/http://f42.aaa.livedoor.jp/~bands/purple/purple.html さらに、視覚には個人差もあります。あなたがその眼で見ているものははたしてどこまで「真実」なのか。デジカメと人間の眼は同じではなく明らかな差がある。そんな中で「自然であること」「嘘でないこと」を原理主義的に主張することは不可能だといえるでしょう。 良い嘘と悪い嘘 嘘は、内容やその意図によっては、犯罪になったり嫌われたりします。詐欺師の常套句は「騙すつもりはなかった」ですが、写真でもそれは似たようなものです。 悪意のある嘘は、文字通り「悪」なるものです。しかし、嘘を「虚構」と読みかえたとき、それは弱々しい「真実」以上の強い力を持つことがあります。強い力が込められた創作(虚構)は、単純な善悪を越えた存在になり得るはずです。 嘘と真実の間には、イメージセンサーと同じ8bit〜14bitくらいのグラデーションがある。嘘と真実が描く映像そのものが写真である、というのは言い過ぎでしょうか。 「良い嘘」と「悪い嘘」の境目がどこにあるのかについては、個人の尊厳や生き方にもかかわるあまりに普遍的なテーマです。本稿では手に負えないので割愛しますが、本稿の主張の一つは「自然」と「不自然」の境目がどこにあるのかというテーマもまた、それとおなじくらい簡単ではない、ということです。スライダーの位置がどのへんにあるのか、というような単純で牧歌的な問題ではありません。 良い嘘と悪い嘘を決めるもの https://twitter.com/nekozita93/status/1164917013115891712 今回のアサヒカメラの記事の「否定派」の意見の代表のひとつがこのツイートだと思います。「写真くらい自由に撮らせろ」。この言葉は別の言い方をすれば「良い悪いをなんであんたに決められないといけないの?」だと思います。 良い嘘と悪い嘘が仮にあるとして、それは誰が決めるのか。誰に決めることができるのか。これまで誰が決めてきたのか。これから誰が決めるのか。 この構図を極端に単純化すると、「写真のよしあし」をが決めてきた存在が、「著名カメラマン」や「権威ある専門誌」「フォトコン」から、SNSの暴力的なまでの拡散力と「イイネ」数に変わってきている、といえるのではないでしょうか。 筆者はこのどちらについても、良い面と悪い面があり、そしてそれこそが「写真メディア」が今、斬り込むべきテーマの一つであると考えています。 合成写真 https://www.facebook.com/photo.php?fbid=415700911888187 冒頭に触れたように「レタッチしすぎの罠」について触れるなら、合成写真についても触れないとチキンです。こちらの作品は4年前、東京カメラ部の投稿からです。 この頃、筆者は合成写真を忌み嫌っていました(*)。その代表作がこれです。 (*)勢い余ってこんなグループも作りました。現在休眠中です。 https://www.facebook.com/photo.php?fbid=407801959557693 煽り文ではアサヒカメラ様をチキン呼ばわりしてしまいましたが、実は2017年1月号に素晴らしい特集を組まれています(*)。姑息な合成写真ではなく、正々堂々と、合成写真の「表現」で勝負せよ、と。 (*)今回もこのクオリティを期待していたのですが。 現在の筆者の立ち位置は「合成とレタッチに本質的な差はない」「善し悪しは作者と作品が決めるもの」です。自分自身はコラージュ合成はやりませんが、やる人はそれで別に構わないと思います(*)。 (*)3年前ならコラージュ合成をしれっとSNSにアップしても「奇跡の絶景だ!」という絶賛の嵐が巻き起こったでしょうが、今ならあからさまなバレバレの合成はSNSでも高い評価にはならないでしょう。 そもそも、いかに合成を否定しようとも、ある作品が合成であるかどうかを見抜くことは困難になっています。合成写真が奇跡の風景と絶賛されることも、逆に合成でない写真が「合成だ!」と非難されることさえあります。「合成警察」「レタッチ警察」は労多くして実りのない行為です。「マウント主義者」以外にはオススメできません^^;; しかし「合成は禁じ手」と考える立場は、写真に対するいくつかの重要な「主義」の中の一つだと考えています。米美知子さんがインタビューで発言されている内容の多くは「自然主義」ないしは「体験主義」と呼ぶべき立場からだと思います。 この立場には筆者は大いに共感するものですが、だとすれば「レタッチ過剰の風潮を斬る」のではなく、なぜ自分はそんな主義で写真を撮るのかを一般ピープルでもわかる形で語ってほしいと思います(*)。 (*)KAGAYAさんのこのインタビュー記事は筆者のひとつの目標でもあります。 まとめ いかがでしたか? リリース文?に書いたように、この後全五回で連載する予定です。天体写真・星景写真という、ひじょうに狭い分野でしか活動していない筆者には手に余る連載なのですが、サムネイル画像を作ったらもう勢いが止まらなくなってしまいました^^;; もうすこしお付き合いください(*)。 (*)アサヒカメラの次月号が出るまでに連載が終わらなかったら、1年かかると思ってください^^ 次回は、写真界隈の権威として君臨している?「フォトコン」についてです。お楽しみに!編集部発信のオリジナルコンテンツ