星景写真家の湯淺光則氏が、noteに連載中の記事で「良い写真とは?」という考察を掲載されています。



湯淺光則@星景写真家|note よい写真とは
https://note.mu/noriyuasa/n/nf3759a6c1b68

良い写真って、どういう写真でしょうね。
時々、話題になりますが、なかなか結論や定義というものを
聞いた事がないような気がします。

非常に納得感を感じる部分も、これはちょっと不用意に煽り過ぎているなと感じる部分もありますが、冷静に読めば得るところの多い問題提起だと思います。ただ、人によっては「もう二度と読みたくない」と思うこともあるでしょう。それも含めて、編集子の個人的見解を以下に記します。

誰もが撮るのに忙しい

芸術にせよスポーツにせよビジネスにせよ、現場の前線・時代の最先端で活躍する人たちがいます。そしてその活動を文章や日常の会話の中で間接的に「評論」として語る人たちがいます。

大きなマーケットでは、この「評論」もまた大きなマーケットとなります。大谷選手のように160kmの速球を投げられるわけでも150mのホームランを打つことができるわけでもない我々凡人にとっては、「評論」もまた何かを仮想体験する上で意味のある存在でしょう。

ところが「写真」はどうでしょうか。誰もがプロとあまり変わりない機材を手にすることができるようになり、自由に撮ることができる。天賦のフィジカルも大きな組織も必要ない。自由な発想と感性を武器に個人の力量と才覚だけで「良い写真」を量産できるようになった。今はそんな時代と言えるでしょう。

湯淺氏が「良い写真とは?という問いの結論や定義を聞いたことがない」と述べられているのはまさにその状況の裏返しではないでしょうか。「写真に関するプレイヤーは、皆撮るのに忙しい」のです。(ネットにアップしたりイイネするのに忙しい、という別の側面もありますが)

「写真評論」の意義について

どんな分野であれ、どんなレベルであれ、評論家よりもプレイヤーがリスペクトされるべきです。これはメディアの端くれを運営する編集子の持論であり基本姿勢でもあります。評論家がプレイヤーより偉くなった世界は衰退期にある残念な世界です。

一方で、発展期にあるダイナミックな世界では、無限の多様性の中からいろいろな良いもの悪いものが生まれて大きくなっていくでしょう。その中に「評論」というものも存在し、一定の意義があるはずです。その意味で湯淺氏が始められた「個別の写真作品そのものを語らない議論」もまた一定の意義があるものと考えます。プレイヤー全盛の今の段階でそういう提起をされた湯淺氏には敬意を表するものです。

一つだけ、湯淺氏のコンテキストを読む人には、この評論を「評論家よりもプレイヤーがリスペクトされるべき」という原則論(私見を原則にすり替えました^^;)を越えて過剰に反応されないように強く望みます。ぶっちゃけ、評論に惑わされず、自分の写真を撮ることに邁進してほしい^^ ヒマなときや行き詰まったときには良い思考の燃料になるかもしれませんが。

写真作品として高く評価される写真

とはいえ、湯淺氏がまとめられた以下のリストは大いに参考になります。全文を引用させていただきます。

「印象に残る写真」
「作者の思いが伝わる写真」
「撮った印象のままが表現できている写真」
「共感できる写真」
「思わずほっこりする写真」
「インパクトのある写真」
「ドラマチックな写真」
「オリジナリティのある写真」
「決定的瞬間をとらえた写真」
「想像を掻き立てる写真」
「人に感動を与える写真」
「ストーリー性のある写真」
「今まで見たことがない写真」
「ずっと見ていたい写真」

「よい写真とは」という漠然とした問いをこのような形で「言語化」することは我々凡人にとっては大いに有益です。

多くの人にメリットをもたらす「よい評論」もまた「よい作品」同様にクリエーターの汗と情熱が必要です。よい評論もまた、よい作品と同じように評価されリスペクトされるべきでしょう。(そのときは「よい評論とは?」という議論が始まることに・・なるのでしょう^^)

評論は評論であり、作品ではない

一方で、言語化で生まれる新たな矛盾〜創意工夫と奇をてらうことの違い、被写体の力と撮影者の力、個性とワンパターンなど〜にも触れられています。言語化すると言語に縛られる。これは全ての評論、作品にあてはまることでしょう。

繰り返しになりますが、評論は評論であって作品ではありません。評論を参考にしたい人は参考にすればいいし、作品や作者の考えが評論に縛られる必要はどこにもありません。

さてさて、いつも結論を出すのが難しいテーマばかりですが、
とにかく「良く考えてみる」「みんなで討論してみる」という事が大事なのではないでしょうか?

時代は今写真に「評論」を求めているのか。よくわかりません^^;でも、「よく考えてみる」ことはいつも重要だと思います。「みんなで討論する」とどうなるのかもよくわかりません^^;; 少なくとも「全員参加!」ではないでしょうね。 良い写真とは?https://reflexions.jp/tenref/orig/wp-content/uploads/sites/4/2018/09/9f3f0eaaf68e44916a7036fc00ff1f62.jpghttps://reflexions.jp/tenref/orig/wp-content/uploads/sites/4/2018/09/9f3f0eaaf68e44916a7036fc00ff1f62-150x150.jpg編集部写真コラム星景写真家の湯淺光則氏が、noteに連載中の記事で「良い写真とは?」という考察を掲載されています。 https://twitter.com/tenmonReflexion/status/1040869276469518336 湯淺光則@星景写真家|note よい写真とは https://note.mu/noriyuasa/n/nf3759a6c1b68 良い写真って、どういう写真でしょうね。 時々、話題になりますが、なかなか結論や定義というものを 聞いた事がないような気がします。 非常に納得感を感じる部分も、これはちょっと不用意に煽り過ぎているなと感じる部分もありますが、冷静に読めば得るところの多い問題提起だと思います。ただ、人によっては「もう二度と読みたくない」と思うこともあるでしょう。それも含めて、編集子の個人的見解を以下に記します。 誰もが撮るのに忙しい 芸術にせよスポーツにせよビジネスにせよ、現場の前線・時代の最先端で活躍する人たちがいます。そしてその活動を文章や日常の会話の中で間接的に「評論」として語る人たちがいます。 大きなマーケットでは、この「評論」もまた大きなマーケットとなります。大谷選手のように160kmの速球を投げられるわけでも150mのホームランを打つことができるわけでもない我々凡人にとっては、「評論」もまた何かを仮想体験する上で意味のある存在でしょう。 ところが「写真」はどうでしょうか。誰もがプロとあまり変わりない機材を手にすることができるようになり、自由に撮ることができる。天賦のフィジカルも大きな組織も必要ない。自由な発想と感性を武器に個人の力量と才覚だけで「良い写真」を量産できるようになった。今はそんな時代と言えるでしょう。 湯淺氏が「良い写真とは?という問いの結論や定義を聞いたことがない」と述べられているのはまさにその状況の裏返しではないでしょうか。「写真に関するプレイヤーは、皆撮るのに忙しい」のです。(ネットにアップしたりイイネするのに忙しい、という別の側面もありますが) 「写真評論」の意義について どんな分野であれ、どんなレベルであれ、評論家よりもプレイヤーがリスペクトされるべきです。これはメディアの端くれを運営する編集子の持論であり基本姿勢でもあります。評論家がプレイヤーより偉くなった世界は衰退期にある残念な世界です。 https://twitter.com/009ciYyQcdJGIqe/status/1040913474291810304 一方で、発展期にあるダイナミックな世界では、無限の多様性の中からいろいろな良いもの悪いものが生まれて大きくなっていくでしょう。その中に「評論」というものも存在し、一定の意義があるはずです。その意味で湯淺氏が始められた「個別の写真作品そのものを語らない議論」もまた一定の意義があるものと考えます。プレイヤー全盛の今の段階でそういう提起をされた湯淺氏には敬意を表するものです。 一つだけ、湯淺氏のコンテキストを読む人には、この評論を「評論家よりもプレイヤーがリスペクトされるべき」という原則論(私見を原則にすり替えました^^;)を越えて過剰に反応されないように強く望みます。ぶっちゃけ、評論に惑わされず、自分の写真を撮ることに邁進してほしい^^ ヒマなときや行き詰まったときには良い思考の燃料になるかもしれませんが。 写真作品として高く評価される写真 とはいえ、湯淺氏がまとめられた以下のリストは大いに参考になります。全文を引用させていただきます。 「印象に残る写真」 「作者の思いが伝わる写真」 「撮った印象のままが表現できている写真」 「共感できる写真」 「思わずほっこりする写真」 「インパクトのある写真」 「ドラマチックな写真」 「オリジナリティのある写真」 「決定的瞬間をとらえた写真」 「想像を掻き立てる写真」 「人に感動を与える写真」 「ストーリー性のある写真」 「今まで見たことがない写真」 「ずっと見ていたい写真」 「よい写真とは」という漠然とした問いをこのような形で「言語化」することは我々凡人にとっては大いに有益です。 多くの人にメリットをもたらす「よい評論」もまた「よい作品」同様にクリエーターの汗と情熱が必要です。よい評論もまた、よい作品と同じように評価されリスペクトされるべきでしょう。(そのときは「よい評論とは?」という議論が始まることに・・なるのでしょう^^) 評論は評論であり、作品ではない 一方で、言語化で生まれる新たな矛盾〜創意工夫と奇をてらうことの違い、被写体の力と撮影者の力、個性とワンパターンなど〜にも触れられています。言語化すると言語に縛られる。これは全ての評論、作品にあてはまることでしょう。 繰り返しになりますが、評論は評論であって作品ではありません。評論を参考にしたい人は参考にすればいいし、作品や作者の考えが評論に縛られる必要はどこにもありません。 さてさて、いつも結論を出すのが難しいテーマばかりですが、 とにかく「良く考えてみる」「みんなで討論してみる」という事が大事なのではないでしょうか? 時代は今写真に「評論」を求めているのか。よくわかりません^^;でも、「よく考えてみる」ことはいつも重要だと思います。「みんなで討論する」とどうなるのかもよくわかりません^^;; 少なくとも「全員参加!」ではないでしょうね。編集部発信のオリジナルコンテンツ