金村修氏の伝説の写真誌月例フォトコン。今読み返すとスゴイ。右下は筆者の星ナビギャラリートップ下、未だ越えられぬ奇跡の一枚^^;;

アサヒカメラの「炎上商法」を斬る!第二回をお届けします。

今回のテーマは「フォトコン」。たかがフォトコン、されどフォトコン。人はパンのみにて生くるものに非ず、人はフォトコン入選のためのみに撮るに非ず。写真界隈で大きな位置を占めるフォトコンですが、天リフ流に「写真への愛」を込め、刺激的に冴え渡る?問題提起といきましょう。

「上級者を目指す」写真雑誌フォトコンは「習い事」の発表会?

アサヒカメラの「問題提起」の後、肝心のアサカメ編集部は沈黙を守っていたのですが、先日神戸新聞社のニュースサイトに「提灯記事?」が公開されていました。上のツイートは筆者の感想です(*)。

(*)炎上狙いで刺激的な言葉を並べたのにバズる気配はない模様^^;;; アサカメ編集部もそうですが、フォローワーをもっと増やさないとネットでの存在感は薄いです–;;;

まいどなニュース・老舗雑誌がなぜ「インスタに挑戦状」…発行人と編集長から返ってきた回答には写真愛が詰まっていた
https://maidonanews.jp/article/12709046

「ドラマチックで美しい写真ではあるものの、『どこかで見たことがある』作品が多数並ぶため、審査では埋没してしまいます。また、過度なレタッチによって『不自然』さが目立ち、選に漏れる作品も増えました。力のある写真は、レタッチに頼らずとも、審査員の目に止まるものです。流行の写真表現を真似るのもいいのですが、上級者を目指すのであれば、自分にしか撮れない風景を模索する必要がある、ということを伝えたく、今回の特集を企画しました」

こちらはその記事からの引用。元記事を見ればわかりますが、簡単に超訳しておきます。

  • みなさん上級者になってフォトコンに入選したいんでしょ?
  • 盛り盛りレタッチはもう目立たないですよ。「自分にしか撮れない風景」を模索しないと入選しませんよ?
  • 「自然な風景写真」のお手本である著名な写真家さんはこう仰ってますよ。参考になりますよね?
  • 「上級者」になるための適切なレタッチの方法を教えてあげます。来月にも掲載しますから研究してくださいね。

これのどこが「写真への愛」なのか、かなり不明です。結局は自分たちを「権威」側に位置づけようとする若干の悲壮感すら感じる世界観です。「権威」については後段で触れますが、カメラ雑誌の権威はもはやこの程度なのかと悲しくなります。

【「レタッチしすぎの罠」を斬る】アサヒカメラの「炎上商法」に天リフが怒りの一撃!【第1回】

前回の記事にいくつかの示唆深いコメントを頂いていますが、Ozaki Yuji さんから頂戴したその一つを抜粋します。

アサヒカメラは「習い事の月刊誌」としての側面を持っているのでしょう。習い事の本だから、(編集者の意図から大きく外れない各流派の)師範の考え方や、その考え方を体現する具体的な作品や文章を紙面上に公表することも必要でしょう。その習い事の範囲内での成果発表会が「コンテスト」であると考えています(*)。

(文字強調・筆者)

(*)この後「サイエンスがベースになりがちな天文雑誌の立ち位置とは、大きく異なるような気がします。」と続くのですが「習い事の発表会」的な立ち位置は天文雑誌でも同じものがあります。ただし読者のレベルがある部分で突き抜けてしまっていて師範の立場が逆転しているところもあります。この「逆転現象」は実は一般写真でも同じなのかも?

それぞれの写真家がフォトコンをどのように捉えているのかは、人それぞれだと思います。自分の全てを注ぎ込んで戦う闘技場(アリーナ)での真剣勝負なのか、すべりこみでもとにかく名前を載せたいのか、会心の傑作を多くの人に見てもらいたいのか、日々の写真撮影のモチベーションの一つなのか、いろいろな動機があるでしょう。

しかし、アサヒカメラという雑誌のフォトコンが、今何を目指しているのかは前掲の記事から明らかです。それは自らの権威を体現化する作品を集め、その権威を維持・補強することにほかなりません(*)。

(*)最大の目的は現在の読者を維持し続けることなのでしょう。

フォトコン審査員体験記

Optolong社の星景写真コンテストの結果が発表されました。

ここで、筆者の個人的なフォトコン審査員体験について触れておきたいと思います。筆者は写真について専門教育を受けたわけでも体系的な学習をしたわけでもなく、天文・天体写真というごく狭い業界の片隅で、Webサイトを運営して細々と生活の糧としている立場ですが、クライアント様のご縁で昨年このフォトコンの審査員として加わることになりました。

6人の審査員にはYuri BeletskyVincent Cheng (不動明王)のような筆者でも知っている高名なフォトグラファーが含まれており、いささか場違い感はあったものの、勉強にも売名wにもなるだろうという思惑です。

審査集計表。当然ですが人によって評価にバラツキがあります。機械的な合計点ではなく、最終順位はdiscussionで決定されました。

実際やってみると、予想以上に大変でした。応募作品は300ほどだったのですが、それでもまず単純作業から大変です。メールで受け付けた写真をGooglePhotoに登録し全員で共有する(これはOptorongの担当者がやってくれました)、自分ともう一人で半分に絞り込む(ここでも個人差がありましたが、最終選考には影響のないレベルでした)、全員が評価ポイントを表に記入し入賞者候補を絞り込む、チャットで最終選考のディスカッション(*)。

(*)ここでも面白いエピソードがあったのですが守秘義務上、割愛します^^;;

フォトコンの審査結果を批判する人は世の中に多くいますが、実際にやってみるとこれもう大変ですよ。評価点「5」と評価点「4」の違いを簡潔に延べよ。いや、無理です^^;;;

巨匠が弟子に下審査させてパラパラと見て直感でエイヤと決めるのなら楽なんでしょうけど。公平に民主的にフォトコンを運営することの大変さを、やってみて初めて思い知りました(*)。

(*)報酬なしの完全ボランティアです。一般の写真はともかく、天体写真・星景写真ではフォトコンの審査員はボランティアかそれに近い形だと推測します。

本記事の文脈で、この経験から筆者が言いたいことは1つです。健全にフォトコンを運営するためには健全な権威がなくてはならない。そして、健全な権威を維持するには、膨大な労力の蓄積が必要だということです。

権威を下支えする「技術の体系化」

筆者は、「健全な権威」とはより多くの人が納得できる価値基準を示すことだと考えています。いやしくも他人様の写真に優劣を付けるわけですから「なぜこちらが良くて、こちらが良くないのか」について、ある程度客観的な説明が必要になります(*)。

(*)名前だけで誰もが納得する「大御所」の評価もある意味では「客観的」なのかもしれません。

そこで登場するのが「技術の体系化」です。視覚的に気持ちよく見える構図とは。被写体の階調を美しく見せる表現技法とは。機材の能力を引き出すテクニック。過去の膨大な作品から経験的に導き出された「よい作品」のテンプレート。そういったものを頭にインプットし、臨機応変に直感レベルで応用できるようになることが「上級者になる」ことだといえるでしょう。

上のツイートのリンク先記事は、とかく「感性」という曖昧な言葉が飛び交う写真界隈の中で「理論(ないしは技術)」の重要性をわかりやすく語った記事です。

フォトコンを審査する側でいえば、写真を評価するという局面でも同じことがいえます。「感性」を持ち出す前に、ある「技術体系」の眼で作品をじっくり見る。撮影者は何を考えこの最終アウトプットに至ったのか。そのプロセスの妥当性、作者なりの工夫はどうか。その上で「作者の感性」を推測し自分の感性と照らして善し悪しを判断する。

このプロセスをうまく実行できる「権威」や「技術体系」は、たいへん有用で尊敬すべき存在だといえるでしょう。おっと、こんな物言いは畏れ多い「下からの上から目線」ですよね^^;;技術を高いレベルでマスターしそれを健全に行使できる存在は基本的に偉いのです。

そして、それ以上に偉大な人たちがいます。「写真」というものが世に生まれて200年弱の間、写真技術を体系化し、有形無形の形で世の中に遺してきた先人達です。さらには、そういった地道な仕事の蓄積を絶えずアップデートしながら今の「写真業界」「写真文化」を支えている多くの人たちがいます。それがあってこそ「権威」は「権威」として存在できるのです。

フォトコンは今も「権威」なのか

フォトコンのような芸術(文化)だけでなく、スポーツ・学問・経済など、あらゆる分野には「権威」とそれを下支えするものを包括した「ピラミッド(ヒエラルキー)」構造が存在します。100mを9.99秒で走れるよりも9.58秒で走れる方が偉い。ピラミッドの上の方が偉い。デビューした新人はピラミッドの最下層から始まって、そこから上を目指すゲームが始まります。

世の中にはこういう「ピラミッド」がありとあらゆる分野に存在します。そして私たちは、「食べていく」ための必然としてあるピラミッドに属しつつ、別の何かを求めてまた別のピラミッドに参加します。あるピラミッドでは真剣勝負で頂点を目指しているかも知れないし、またあるピラミッドではそこそこの場所で「我慢」または「そこそこ満足」することもあるでしょう。

そんな中、別に全員がピラミッドの頂点を目指しているわけではない、という認識は重要です。そもそも全員が頂点に立てるはずもない。頂点に立たなくても楽しいことはいくらでもあります(*)。「上級者を目指しましょう」という誘いは別に悪くないのですが、「おまえは上級者になりたいはずだ!」「上級者に育ててやる」というのはただのお節介にすぎません。

(*)このへんは連載第五回の「○○写真主義を斬る」で触れたいと思っています。

↑筆者は村上春樹のベストタイムに1分及びませんでした。いつか抜けると思っていたのに天文を始めて断念w

余談になりますが、こんなピラミッドが今一番健全に機能しているのは、日本人がみんな大好きな「マラソン」の世界ではないでしょうか。公園に行けば平日休日朝夜問わず、老若男女みな走ってます(*)。完走を目指すメタボのおじさん、仲間と楽しく走る若い女性、ガチなシリアスまで、皆それぞれの目標と楽しみを持ってやっています。42.195kmを2時間5分台で走ることがいかに偉大であるかも、そのレベルに自分は一生縁がないことも、皆知っています。それでも走るのです。

(*)なんだかんだ言っても、日本はとても幸せでよい国だということを実感します。

結局、フォトコンに権威があろうとなかろうと、そんなことは自分とは無縁だと考える人が圧倒的多数なのではないでしょうか。

一般論でいえば「ピラミッド」の寿命は永遠ではありません。あるときソ連邦のように突然崩壊することもあれば、海辺の砂山のように完成する前に消えてしまうこともあります。

アサヒカメラ2019年9月号の記事がある意味哀愁すら誘うのは、旧来の写真産業・写真メディアのピラミッドがもはや崩壊寸前であるのに、時計の針を逆に戻そうとしているところではないでしょうか(*)。

(*)その方法論がネット社会というまだ新しい「ピラミッド」の「炎上」という方法論であることに胸熱感がさらにつのります。なんだか、長い時間をかけて衰退してきた「新聞」の「豊富な話題でモテるかもよ」というCMが想い出されますねえ。。

たとえ時代の波に翻弄されたとしても、「自らが人生を賭けて歩む事」への矜持はあるなら、もう少し違ったアプローチになってもいいのになあ、と感じます。

アムロは違うのよ・権威を飛び越える天才

左)糸杉と星の見える道・ゴッホ(Wkipediaより) 右)腕を曲げて横たわる裸婦・モディリアーニ(http://art.pro.tok2.com/M/Modigliani/z021.htm)

権威が健全に機能している場合でも、権威は万能ではありません。

本当に優れた写真作品(芸術作品)は、圧倒的な力で多くの人の心と背筋を震わせることができます(*)。ごく一部の人はそんな「本当に優れた芸術」をまるで息をするように産みだし続けます。「アムロは違う」のです。

(*)逆にそういう作品が「本当に優れた芸術」だとすると「平凡なあなたが感動する作品こそが本当に優れた芸術である」ということもできるでしょう。ただし詐欺師にはご注意^^;;;

私見ですが「フォトコン」には一定の新人発掘の機能があるとは思いますが、その中にはほんの一握りのこんな「天才」は含まれないと考えています。天才は権威を華麗に飛び越えて、天衣無縫にその才能をまき散らしていきます。権威が発掘しなくても天才は世に出てくるのです(*)。

(*)とはいえ、権威が無視することで天才を夭折させることは可能でした。ゴッホやモジリアーニが在命中全く評価されなかったことが不思議でなりません。現代ならそんなことはもう起きないのか、興味深いテーマではあります。

フォトコンができることは「ある権威」の持つ価値観に沿って作品に優劣をつけることだけです。賞のランクは「花丸」の数。たいへんよくできましたね。「この作品はよい作品です(佳作)」「この作品は特に優れています(一席)」「この作品はあと一歩でした(最終選考候補)」。フォトコンは結局は「凡人枠」なのです。

そこを勘違いすると「○○はワシが育てた」的な笑えない笑い話になってしまいます。フォトコンが発掘できる新人は、権威のピラミッドシステムの物差しで測れる「より優れた凡人」でしかありません。それ以上の天才はフォトコンが「発掘」したのではなくて「(運良く)応募してもらえた」だけのことです。

「奇跡の一枚」を発掘する

https://tokyocameraclub.com/special/exhibition_2015/

しかし、フォトコンには別の重要な役割があるはずです。天才は息をするように奇跡を量産しますが、私たち凡人でも生涯に何枚かは「奇跡」を生み出せることがあります。特に「カメラ」という優れた映像記録の道具でなされる「写真」という分野は、凡人が奇跡を生み出す確率がもっとも高いといえるでしょう(*)。

(*)その意味では東京カメラ部の「奇跡」プロモーションは理にかなった素晴らしい「コンセプト」だと思います。0.0045%というのは凡人が萎えるほど低い確率ですが^^;;;

その人にとっての人生最大の奇跡。それこそがフォトコンが見逃してはならないものではないでしょうか(*)。

(*)とはいえその機能はもうSNSがほとんど担っていますが。

この作品は最近筆者が眼にした中で一番好きな作品。既存の価値観を自由な発想とカメラワークでさらりと打ち破った、愛の詰まった傑作です。「平凡」「奇跡」の文脈で引用するのはとても僭越&恐縮なのですが(*)、SNS的に30万favは「奇跡」の名に恥じないと思います。

(*)撮影者様はスタジオ系のプロカメラマンの方のようです。この作品も綿密に計算されたライティングがあってこそ。

権威に対する誤謬・壁が卵で卵が壁

「高くて硬い壁と、壁にぶつかって割れてしまう卵があるときには、私は常に卵の側に立つ」

村上春樹・エルサレム賞受賞式典スピーチより

みんな権威が大嫌い。文豪・村上春樹の有名なスピーチです。嘘を紡ぎ出す小説家の立ち位置を発露したという意味でも、本連載第一回にも通じる名スピーチだと個人的に思っていますが、彼のこの立ち位置には決定的な時代感覚のズレがあります。

それは「壁」を作り出しそれを必死で維持しようとする者たちも、また弱い「卵」たりうることです。世代的に彼が生きた時代の多くの期間では、「壁」は確固たる壁であったかもしれませんが(*)、現代では壁はあるときは卵であり、卵はまた壁となるのです。

(*)同時期にノーベル平和賞を受賞したオバマ大統領のスピーチからは、最大の「壁」の執行者であるアメリカ大統領もまた一人の「卵」なのだ、との感を持ちました。まあそれが彼の決定的な弱さなのですが。その次の大統領トランプが現実に「壁」を作ろうとしているのには胸熱です。

フォトコンをはじめ既存の「権威」は今、弱っています。ネット社会で「卵」の側であった「民衆」から、別の強い「権威」が生まれ始めています。「権威」を標榜しているメディアは経済的にも瀕死の状態です。

しかし、権威を振りかざし上から目線に立つことがクールでもなんでもない今、弱った権威に石を投げ叩くこともまたクールではありません。

卵が壁になる瞬間。

こちらのツイート、一人のゲスとして筆者もとても興味深いのですが、これはアカンですよ、弱った権威に石を投げる(*)のは^^;;;

(*)弱った権威は最後には民衆の手で「断頭台の露」と消えるというのが歴史の教えなので、この発言は誰にも否定できないのですが。

逆に写真雑誌が権威の標榜を続けるのであれば、ここまで言われて黙っているのはチキン以外の何ものでもありませんよ。。。

まとめ ・勝ったのはあの百姓たちだ

いかがでしたか?(*)

(*)この紋切りフレーズは意地でも続けますwww

「勝ったのはあの百姓たちだ、わしたちではない」

黒澤明・七人の侍より

権威が権力を完全に失い、身につけた特殊技能と精神性だけが残され、命を賭した最後のミッションを果たしたときのつぶやき。権威や権力は民衆があってこそ成り立たっていること、権威を失ったとしても「己の生き方を信じてそれを実行するサムライ」には存在意義があることを簡潔に示したものと、筆者は受け止めました。

インスタ「萎え」、桜の文化、そして写真という文化

以前、筆者はこの記事で「本当に優れた芸術はほんの選ばれた天才しか生み出すことができませんが、豊かな文化は数多くの普通の人の中で育まれるものだと信じています。」と書きましたが、その考えは今も変わっていません。

時代によって権威と大衆・壁と卵の力関係は変わってゆきますが、「文化」は常に「普通の人」たちの中で育まれていくものです。筆者は「権威としてのフォトコン」を否定するものではありませんが、権威という「壁」に絡め取られるような付き合い方は、あんまり幸せではないような気がします。

逆に「権威」が弱っている今、権威を否定して石を投げるよりも、権威がこれまで蓄積してきた様々なノウハウを学び取る方がプラスになるはずです。権威が完全に崩壊してしまうと、それを支えてきた膨大な「体系化」のアウトプットはいずれ散逸してしまうことでしょう(*)。その一点のためだけでも、権威が本当に死んでしまわないように、我々一般ピープルは権威に対する一定のリスペクトを持つべきではないでしょうか。

(*)天体写真の例でいえば、体系化された専門技術書は絶滅寸前です。一部のマニアのボランティア的な仕事で細々と継承されているのが現状です。

最後に、権威(既存のフォトコン・カメラ雑誌)の側も自分たちの再定義が必要なのではないでしょうか。いつまで「習い事・稽古事」の立ち位置を続けるのでしょうか?少なくとも、新しいタレントは東京カメラ部のようなSNSに流れています。「インスタ映えに怒りの一撃」が内弁慶な身内の擁護のままだと、衰退の一途をたどるしかないでしょう。それでは困ります。もっとしっかりしてください。これについてはもう一度、本連載第四回の「写真メディアを斬る」で触れたいと思います。

次回は「デジタル写真を斬る」。デジタル化で変わったことと変わらないことをつぶさに検証したいと思います。

http://reflexions.jp/tenref/orig/wp-content/uploads/sites/4/2019/09/7fccf7cfb08c169aa73731fa3065fb31-1024x768.jpghttp://reflexions.jp/tenref/orig/wp-content/uploads/sites/4/2019/09/7fccf7cfb08c169aa73731fa3065fb31-150x150.jpg編集部雑記帳HOT!アサヒカメラの「炎上商法」を斬る!第二回をお届けします。 今回のテーマは「フォトコン」。たかがフォトコン、されどフォトコン。人はパンのみにて生くるものに非ず、人はフォトコン入選のためのみに撮るに非ず。写真界隈で大きな位置を占めるフォトコンですが、天リフ流に「写真への愛」を込め、刺激的に冴え渡る?問題提起といきましょう。 「上級者を目指す」写真雑誌フォトコンは「習い事」の発表会? https://twitter.com/tenmonReflexion/status/1173725636063420417 アサヒカメラの「問題提起」の後、肝心のアサカメ編集部は沈黙を守っていたのですが、先日神戸新聞社のニュースサイトに「提灯記事?」が公開されていました。上のツイートは筆者の感想です(*)。 (*)炎上狙いで刺激的な言葉を並べたのにバズる気配はない模様^^;;; アサカメ編集部もそうですが、フォローワーをもっと増やさないとネットでの存在感は薄いです--;;; まいどなニュース・老舗雑誌がなぜ「インスタに挑戦状」…発行人と編集長から返ってきた回答には写真愛が詰まっていた https://maidonanews.jp/article/12709046 「ドラマチックで美しい写真ではあるものの、『どこかで見たことがある』作品が多数並ぶため、審査では埋没してしまいます。また、過度なレタッチによって『不自然』さが目立ち、選に漏れる作品も増えました。力のある写真は、レタッチに頼らずとも、審査員の目に止まるものです。流行の写真表現を真似るのもいいのですが、上級者を目指すのであれば、自分にしか撮れない風景を模索する必要がある、ということを伝えたく、今回の特集を企画しました」 こちらはその記事からの引用。元記事を見ればわかりますが、簡単に超訳しておきます。 みなさん上級者になってフォトコンに入選したいんでしょ? 盛り盛りレタッチはもう目立たないですよ。「自分にしか撮れない風景」を模索しないと入選しませんよ? 「自然な風景写真」のお手本である著名な写真家さんはこう仰ってますよ。参考になりますよね? 「上級者」になるための適切なレタッチの方法を教えてあげます。来月にも掲載しますから研究してくださいね。 これのどこが「写真への愛」なのか、かなり不明です。結局は自分たちを「権威」側に位置づけようとする若干の悲壮感すら感じる世界観です。「権威」については後段で触れますが、カメラ雑誌の権威はもはやこの程度なのかと悲しくなります。 http://reflexions.jp/tenref/orig/2019/08/29/9410/ 前回の記事にいくつかの示唆深いコメントを頂いていますが、Ozaki Yuji さんから頂戴したその一つを抜粋します。 アサヒカメラは「習い事の月刊誌」としての側面を持っているのでしょう。習い事の本だから、(編集者の意図から大きく外れない各流派の)師範の考え方や、その考え方を体現する具体的な作品や文章を紙面上に公表することも必要でしょう。その習い事の範囲内での成果発表会が「コンテスト」であると考えています(*)。 (文字強調・筆者) (*)この後「サイエンスがベースになりがちな天文雑誌の立ち位置とは、大きく異なるような気がします。」と続くのですが「習い事の発表会」的な立ち位置は天文雑誌でも同じものがあります。ただし読者のレベルがある部分で突き抜けてしまっていて師範の立場が逆転しているところもあります。この「逆転現象」は実は一般写真でも同じなのかも? それぞれの写真家がフォトコンをどのように捉えているのかは、人それぞれだと思います。自分の全てを注ぎ込んで戦う闘技場(アリーナ)での真剣勝負なのか、すべりこみでもとにかく名前を載せたいのか、会心の傑作を多くの人に見てもらいたいのか、日々の写真撮影のモチベーションの一つなのか、いろいろな動機があるでしょう。 しかし、アサヒカメラという雑誌のフォトコンが、今何を目指しているのかは前掲の記事から明らかです。それは自らの権威を体現化する作品を集め、その権威を維持・補強することにほかなりません(*)。 (*)最大の目的は現在の読者を維持し続けることなのでしょう。 フォトコン審査員体験記 http://reflexions.jp/tenref/orig/2018/07/18/5751/ ここで、筆者の個人的なフォトコン審査員体験について触れておきたいと思います。筆者は写真について専門教育を受けたわけでも体系的な学習をしたわけでもなく、天文・天体写真というごく狭い業界の片隅で、Webサイトを運営して細々と生活の糧としている立場ですが、クライアント様のご縁で昨年このフォトコンの審査員として加わることになりました。 6人の審査員にはYuri BeletskyやVincent Cheng (不動明王)のような筆者でも知っている高名なフォトグラファーが含まれており、いささか場違い感はあったものの、勉強にも売名wにもなるだろうという思惑です。 実際やってみると、予想以上に大変でした。応募作品は300ほどだったのですが、それでもまず単純作業から大変です。メールで受け付けた写真をGooglePhotoに登録し全員で共有する(これはOptorongの担当者がやってくれました)、自分ともう一人で半分に絞り込む(ここでも個人差がありましたが、最終選考には影響のないレベルでした)、全員が評価ポイントを表に記入し入賞者候補を絞り込む、チャットで最終選考のディスカッション(*)。 (*)ここでも面白いエピソードがあったのですが守秘義務上、割愛します^^;; フォトコンの審査結果を批判する人は世の中に多くいますが、実際にやってみるとこれもう大変ですよ。評価点「5」と評価点「4」の違いを簡潔に延べよ。いや、無理です^^;;; 巨匠が弟子に下審査させてパラパラと見て直感でエイヤと決めるのなら楽なんでしょうけど。公平に民主的にフォトコンを運営することの大変さを、やってみて初めて思い知りました(*)。 (*)報酬なしの完全ボランティアです。一般の写真はともかく、天体写真・星景写真ではフォトコンの審査員はボランティアかそれに近い形だと推測します。 本記事の文脈で、この経験から筆者が言いたいことは1つです。健全にフォトコンを運営するためには健全な権威がなくてはならない。そして、健全な権威を維持するには、膨大な労力の蓄積が必要だということです。 権威を下支えする「技術の体系化」 筆者は、「健全な権威」とはより多くの人が納得できる価値基準を示すことだと考えています。いやしくも他人様の写真に優劣を付けるわけですから「なぜこちらが良くて、こちらが良くないのか」について、ある程度客観的な説明が必要になります(*)。 (*)名前だけで誰もが納得する「大御所」の評価もある意味では「客観的」なのかもしれません。 そこで登場するのが「技術の体系化」です。視覚的に気持ちよく見える構図とは。被写体の階調を美しく見せる表現技法とは。機材の能力を引き出すテクニック。過去の膨大な作品から経験的に導き出された「よい作品」のテンプレート。そういったものを頭にインプットし、臨機応変に直感レベルで応用できるようになることが「上級者になる」ことだといえるでしょう。 https://twitter.com/Photograph_mt/status/1150186352203325440 上のツイートのリンク先記事は、とかく「感性」という曖昧な言葉が飛び交う写真界隈の中で「理論(ないしは技術)」の重要性をわかりやすく語った記事です。 フォトコンを審査する側でいえば、写真を評価するという局面でも同じことがいえます。「感性」を持ち出す前に、ある「技術体系」の眼で作品をじっくり見る。撮影者は何を考えこの最終アウトプットに至ったのか。そのプロセスの妥当性、作者なりの工夫はどうか。その上で「作者の感性」を推測し自分の感性と照らして善し悪しを判断する。 このプロセスをうまく実行できる「権威」や「技術体系」は、たいへん有用で尊敬すべき存在だといえるでしょう。おっと、こんな物言いは畏れ多い「下からの上から目線」ですよね^^;;技術を高いレベルでマスターしそれを健全に行使できる存在は基本的に偉いのです。 そして、それ以上に偉大な人たちがいます。「写真」というものが世に生まれて200年弱の間、写真技術を体系化し、有形無形の形で世の中に遺してきた先人達です。さらには、そういった地道な仕事の蓄積を絶えずアップデートしながら今の「写真業界」「写真文化」を支えている多くの人たちがいます。それがあってこそ「権威」は「権威」として存在できるのです。 フォトコンは今も「権威」なのか フォトコンのような芸術(文化)だけでなく、スポーツ・学問・経済など、あらゆる分野には「権威」とそれを下支えするものを包括した「ピラミッド(ヒエラルキー)」構造が存在します。100mを9.99秒で走れるよりも9.58秒で走れる方が偉い。ピラミッドの上の方が偉い。デビューした新人はピラミッドの最下層から始まって、そこから上を目指すゲームが始まります。 世の中にはこういう「ピラミッド」がありとあらゆる分野に存在します。そして私たちは、「食べていく」ための必然としてあるピラミッドに属しつつ、別の何かを求めてまた別のピラミッドに参加します。あるピラミッドでは真剣勝負で頂点を目指しているかも知れないし、またあるピラミッドではそこそこの場所で「我慢」または「そこそこ満足」することもあるでしょう。 そんな中、別に全員がピラミッドの頂点を目指しているわけではない、という認識は重要です。そもそも全員が頂点に立てるはずもない。頂点に立たなくても楽しいことはいくらでもあります(*)。「上級者を目指しましょう」という誘いは別に悪くないのですが、「おまえは上級者になりたいはずだ!」「上級者に育ててやる」というのはただのお節介にすぎません。 (*)このへんは連載第五回の「○○写真主義を斬る」で触れたいと思っています。 ↑筆者は村上春樹のベストタイムに1分及びませんでした。いつか抜けると思っていたのに天文を始めて断念w 余談になりますが、こんなピラミッドが今一番健全に機能しているのは、日本人がみんな大好きな「マラソン」の世界ではないでしょうか。公園に行けば平日休日朝夜問わず、老若男女みな走ってます(*)。完走を目指すメタボのおじさん、仲間と楽しく走る若い女性、ガチなシリアスまで、皆それぞれの目標と楽しみを持ってやっています。42.195kmを2時間5分台で走ることがいかに偉大であるかも、そのレベルに自分は一生縁がないことも、皆知っています。それでも走るのです。 (*)なんだかんだ言っても、日本はとても幸せでよい国だということを実感します。 結局、フォトコンに権威があろうとなかろうと、そんなことは自分とは無縁だと考える人が圧倒的多数なのではないでしょうか。 https://twitter.com/ikegami_shin/status/1172679069894201344 一般論でいえば「ピラミッド」の寿命は永遠ではありません。あるときソ連邦のように突然崩壊することもあれば、海辺の砂山のように完成する前に消えてしまうこともあります。 アサヒカメラ2019年9月号の記事がある意味哀愁すら誘うのは、旧来の写真産業・写真メディアのピラミッドがもはや崩壊寸前であるのに、時計の針を逆に戻そうとしているところではないでしょうか(*)。 (*)その方法論がネット社会というまだ新しい「ピラミッド」の「炎上」という方法論であることに胸熱感がさらにつのります。なんだか、長い時間をかけて衰退してきた「新聞」の「豊富な話題でモテるかもよ」というCMが想い出されますねえ。。 たとえ時代の波に翻弄されたとしても、「自らが人生を賭けて歩む事」への矜持はあるなら、もう少し違ったアプローチになってもいいのになあ、と感じます。 アムロは違うのよ・権威を飛び越える天才 権威が健全に機能している場合でも、権威は万能ではありません。 本当に優れた写真作品(芸術作品)は、圧倒的な力で多くの人の心と背筋を震わせることができます(*)。ごく一部の人はそんな「本当に優れた芸術」をまるで息をするように産みだし続けます。「アムロは違う」のです。 (*)逆にそういう作品が「本当に優れた芸術」だとすると「平凡なあなたが感動する作品こそが本当に優れた芸術である」ということもできるでしょう。ただし詐欺師にはご注意^^;;; 私見ですが「フォトコン」には一定の新人発掘の機能があるとは思いますが、その中にはほんの一握りのこんな「天才」は含まれないと考えています。天才は権威を華麗に飛び越えて、天衣無縫にその才能をまき散らしていきます。権威が発掘しなくても天才は世に出てくるのです(*)。 (*)とはいえ、権威が無視することで天才を夭折させることは可能でした。ゴッホやモジリアーニが在命中全く評価されなかったことが不思議でなりません。現代ならそんなことはもう起きないのか、興味深いテーマではあります。 フォトコンができることは「ある権威」の持つ価値観に沿って作品に優劣をつけることだけです。賞のランクは「花丸」の数。たいへんよくできましたね。「この作品はよい作品です(佳作)」「この作品は特に優れています(一席)」「この作品はあと一歩でした(最終選考候補)」。フォトコンは結局は「凡人枠」なのです。 そこを勘違いすると「○○はワシが育てた」的な笑えない笑い話になってしまいます。フォトコンが発掘できる新人は、権威のピラミッドシステムの物差しで測れる「より優れた凡人」でしかありません。それ以上の天才はフォトコンが「発掘」したのではなくて「(運良く)応募してもらえた」だけのことです。 「奇跡の一枚」を発掘する しかし、フォトコンには別の重要な役割があるはずです。天才は息をするように奇跡を量産しますが、私たち凡人でも生涯に何枚かは「奇跡」を生み出せることがあります。特に「カメラ」という優れた映像記録の道具でなされる「写真」という分野は、凡人が奇跡を生み出す確率がもっとも高いといえるでしょう(*)。 (*)その意味では東京カメラ部の「奇跡」プロモーションは理にかなった素晴らしい「コンセプト」だと思います。0.0045%というのは凡人が萎えるほど低い確率ですが^^;;; その人にとっての人生最大の奇跡。それこそがフォトコンが見逃してはならないものではないでしょうか(*)。 (*)とはいえその機能はもうSNSがほとんど担っていますが。 https://twitter.com/goju831/status/1135374269964177408 この作品は最近筆者が眼にした中で一番好きな作品。既存の価値観を自由な発想とカメラワークでさらりと打ち破った、愛の詰まった傑作です。「平凡」「奇跡」の文脈で引用するのはとても僭越&恐縮なのですが(*)、SNS的に30万favは「奇跡」の名に恥じないと思います。 (*)撮影者様はスタジオ系のプロカメラマンの方のようです。この作品も綿密に計算されたライティングがあってこそ。 権威に対する誤謬・壁が卵で卵が壁 「高くて硬い壁と、壁にぶつかって割れてしまう卵があるときには、私は常に卵の側に立つ」 村上春樹・エルサレム賞受賞式典スピーチより みんな権威が大嫌い。文豪・村上春樹の有名なスピーチです。嘘を紡ぎ出す小説家の立ち位置を発露したという意味でも、本連載第一回にも通じる名スピーチだと個人的に思っていますが、彼のこの立ち位置には決定的な時代感覚のズレがあります。 それは「壁」を作り出しそれを必死で維持しようとする者たちも、また弱い「卵」たりうることです。世代的に彼が生きた時代の多くの期間では、「壁」は確固たる壁であったかもしれませんが(*)、現代では壁はあるときは卵であり、卵はまた壁となるのです。 (*)同時期にノーベル平和賞を受賞したオバマ大統領のスピーチからは、最大の「壁」の執行者であるアメリカ大統領もまた一人の「卵」なのだ、との感を持ちました。まあそれが彼の決定的な弱さなのですが。その次の大統領トランプが現実に「壁」を作ろうとしているのには胸熱です。 フォトコンをはじめ既存の「権威」は今、弱っています。ネット社会で「卵」の側であった「民衆」から、別の強い「権威」が生まれ始めています。「権威」を標榜しているメディアは経済的にも瀕死の状態です。 しかし、権威を振りかざし上から目線に立つことがクールでもなんでもない今、弱った権威に石を投げ叩くこともまたクールではありません。 https://twitter.com/_st_1972/status/1167256096878157825 卵が壁になる瞬間。 こちらのツイート、一人のゲスとして筆者もとても興味深いのですが、これはアカンですよ、弱った権威に石を投げる(*)のは^^;;; (*)弱った権威は最後には民衆の手で「断頭台の露」と消えるというのが歴史の教えなので、この発言は誰にも否定できないのですが。 逆に写真雑誌が権威の標榜を続けるのであれば、ここまで言われて黙っているのはチキン以外の何ものでもありませんよ。。。 まとめ ・勝ったのはあの百姓たちだ いかがでしたか?(*) (*)この紋切りフレーズは意地でも続けますwww https://twitter.com/yougaserifu_bot/status/871083836725002240 「勝ったのはあの百姓たちだ、わしたちではない」 黒澤明・七人の侍より 権威が権力を完全に失い、身につけた特殊技能と精神性だけが残され、命を賭した最後のミッションを果たしたときのつぶやき。権威や権力は民衆があってこそ成り立たっていること、権威を失ったとしても「己の生き方を信じてそれを実行するサムライ」には存在意義があることを簡潔に示したものと、筆者は受け止めました。 http://reflexions.jp/tenref/orig/2018/03/30/4420/ 以前、筆者はこの記事で「本当に優れた芸術はほんの選ばれた天才しか生み出すことができませんが、豊かな文化は数多くの普通の人の中で育まれるものだと信じています。」と書きましたが、その考えは今も変わっていません。 時代によって権威と大衆・壁と卵の力関係は変わってゆきますが、「文化」は常に「普通の人」たちの中で育まれていくものです。筆者は「権威としてのフォトコン」を否定するものではありませんが、権威という「壁」に絡め取られるような付き合い方は、あんまり幸せではないような気がします。 逆に「権威」が弱っている今、権威を否定して石を投げるよりも、権威がこれまで蓄積してきた様々なノウハウを学び取る方がプラスになるはずです。権威が完全に崩壊してしまうと、それを支えてきた膨大な「体系化」のアウトプットはいずれ散逸してしまうことでしょう(*)。その一点のためだけでも、権威が本当に死んでしまわないように、我々一般ピープルは権威に対する一定のリスペクトを持つべきではないでしょうか。 (*)天体写真の例でいえば、体系化された専門技術書は絶滅寸前です。一部のマニアのボランティア的な仕事で細々と継承されているのが現状です。 最後に、権威(既存のフォトコン・カメラ雑誌)の側も自分たちの再定義が必要なのではないでしょうか。いつまで「習い事・稽古事」の立ち位置を続けるのでしょうか?少なくとも、新しいタレントは東京カメラ部のようなSNSに流れています。「インスタ映えに怒りの一撃」が内弁慶な身内の擁護のままだと、衰退の一途をたどるしかないでしょう。それでは困ります。もっとしっかりしてください。これについてはもう一度、本連載第四回の「写真メディアを斬る」で触れたいと思います。 次回は「デジタル写真を斬る」。デジタル化で変わったことと変わらないことをつぶさに検証したいと思います。編集部発信のオリジナルコンテンツ