天体写真の画像処理はどこまで許されるのか
「しかし、お前の、女道楽もこのへんでよすんだね。これ以上は、世間が、ゆるさないからな」
太宰治「人間失格」より
画像処理に「許される」境界線はあるか?
もはや画像処理なしでは成り立たないほどの天体写真。
「許される/許されない」境界線とはどこにあるのでしょうか。
ブログ更新。いつもと毛色を変えて「天体写真の画像処理はどこまで許されるのか」という話。ちょっと重めの話題ですし、異論もあるとは思いますが、一つの意見として。 https://t.co/uF7eVqQVSj
— HIROPON (@hiropon_hp2) August 7, 2017
きっかけはこのツイート。
「異論もあるとは思いますが」と書かれている通り、正解などはないテーマです。HIROPONさんの主張は元記事をお読みいただきたいのですが、論点をまとめると、以下の2点。
- 天文雑誌が露骨な「合成」を推奨するのはいかがなものか。
- 天文雑誌が「許容される画像処理」の議論を率先して行うべきではないか
そのうえで、天体写真の「科学写真」「鑑賞写真」という2つの側面から、科学写真的な側面での「やってよさそうなこと」の考察と、それでもなおグレーな手法が多くあることが指摘されています。
アンケートやってみました
天体写真(星景を含む)を撮影されている方におたずねします。
あなたの撮りたい天体写真はどちらに近いですか?#天体写真の画像処理はどこまで許されるのか— 天リフ編集部 (@tenmonReflexion) August 7, 2017
天体写真は「科学写真」なのか「鑑賞写真」なのか。それともなんでもありの「アート」なのか。言葉の定義も明確にしない上でのサンプル数の少ない中での集計ですが、結果はこの通り。
この比率、多くの方の感覚に合っているのではないかと思います。天体写真は、天体という美しいものをいかに表現するかが主なテーマだけど、やっぱり「科学性」とも無縁ではないし、ありありの「アート」の世界とも一線を引きたい・・
TLにキレイな天体写真が流れてきたので「いいね」しましたが、実はその写真はハメコミ合成でした。あなたは思いますか? #天体写真の画像処理はどこまで許されるのか
— 天リフ編集部 (@tenmonReflexion) August 8, 2017
天文民の非難の的になる「ハメコミ合成写真」についても聞いてみました。容認派と残念派の比率は1:2。この数字については、人それぞれ思うところがあるのかと思いますが、おそらくは容認派は増えつつあるものと推測します。
また、「そんなものは絶対に許さない」という過激な意見はほんの一部。過激な一部の意見だけがより目立つ、というネット界の法則通りです。
SNSに天体写真(星景を含む)を投稿されたことのある方におたずねします。
あなたがSNSに投稿する理由は主に何ですか?#天体写真の画像処理はどこまで許されるのか— 天リフ編集部 (@tenmonReflexion) August 8, 2017
この設問は「仲間うちでの評価」「よりオープンな世界での評価」のどちらを重視しているのか、自己承認とコミュニケーションのどちらを主眼においているのか、SNSがどこまで無意識的な存在になっているのかを知りたかったのですが、ごっちゃすぎて役立たずの結果になってしまいました。
感想としては、天文民は思っていたほどクローズでもないし、自己承認欲求だけがモチベーションではない、というところです。
様々なご意見をお寄せいただきました。
いくつかピックアップしてご紹介します。
レギュレーションとして明快にしなきゃいけない場だと、あとはフォトコンかなあ
今はみんなどこまでやっていいのか半信半疑ですよね
だから「この処理手法は銀塩時代からやられていて云々」みたいな言い訳っぽいことをわざわざ言わなければならない#天体写真の画像処理はどこまで許されるのか— 酒力~肉食べるといいよ (@sakechikara) August 8, 2017
2大天文誌のフォトコンが、合成に関するレギュレーションを明確にしていない件。
撮れた画像に含まれない情報がどこまで結果画像に入り込むか、ということと、どんな処理をしたかについての説明責任の問題かなぁ。 #天体写真の画像処理はどこまで許されるのか
— ナょωレよ″丶)ょぅすレナ (@rna) August 8, 2017
「科学写真」の一線を越えないための1つの方法が「再現性の担保」(やり方を明示しそのとおりやれば誰がやっても同じ結果が得られる)です。それを明確化することがこのツイートでいうところの「説明責任」。
画像処理のテクニックが精緻化する一方の中、再現可能なプロセスを明示するのも、「やっていい/悪い」プロセスを明示するのは大変そう。
フォトコンやめてかなり楽しくなったのは事実。自分にとっての写真を自分で楽しめるようになったね!
アカデミアの天文やってるれけじゃなく、星が、遠征が楽しいからその写真を撮ってる。近年はその楽しさが正しく伝わるようにしてる。
うまくまとめた。
w— M&M (@656nm_freak) August 8, 2017
元のテーマから既に離れていますが、フォトコンという一定のルールの下でのゲームから離れることで、自分にとっての楽しみがより充実した、というお話。
アサヒカメラ2017年1月号。姑息な合成写真ではなく、正々堂々と、合成写真の「表現」で勝負せよ、との主旨の、読み応えのある特集があります。表紙は壇蜜。
で、結論は?
残念ながら(?)結論はありません。
編集子自身の考えとしては、かつては「露骨な合成」にはかなり批判的な意見をもっていて、こんな記事を書いたり、こんなグループを立ち上げてみたこともありました。結果としてブロックを喰らったこともございますw
が、今の立場は、明らかな犯罪行為ないしはそれを推奨する行為でない限り、許されない画像処理というものは存在しない、です。
もうすこしくどく言うと、許されるかどうかはあるコミュニティの明示的・暗黙的なルールの問題であって、自分がどのコミュニティに属する(ないしはどこにも属さない)かも個人の自由です。
あるコミュニティが自分のルールをどこまで明示し、どのようにそれを運用するかもコミュニティの問題。天文雑誌の編集方針もフォトコンのルール、SNSの「ローカルルール」もまたしかり。
そして、それが誰にどのくらい支持されるかが、そのコミュニティの「存在感」または「存在価値」ではないかと思うのです。
https://reflexions.jp/tenref/orig/2017/08/09/1772/https://reflexions.jp/tenref/orig/wp-content/uploads/sites/4/2017/08/733fe43ad71a1fe123f366d390d1eb12.pnghttps://reflexions.jp/tenref/orig/wp-content/uploads/sites/4/2017/08/733fe43ad71a1fe123f366d390d1eb12-150x150.png天文コラム「しかし、お前の、女道楽もこのへんでよすんだね。これ以上は、世間が、ゆるさないからな」 太宰治「人間失格」より 画像処理に「許される」境界線はあるか? もはや画像処理なしでは成り立たないほどの天体写真。 「許される/許されない」境界線とはどこにあるのでしょうか。 https://twitter.com/hiropon_hp2/status/894561204856791042 きっかけはこのツイート。 「異論もあるとは思いますが」と書かれている通り、正解などはないテーマです。HIROPONさんの主張は元記事をお読みいただきたいのですが、論点をまとめると、以下の2点。 天文雑誌が露骨な「合成」を推奨するのはいかがなものか。 天文雑誌が「許容される画像処理」の議論を率先して行うべきではないか そのうえで、天体写真の「科学写真」「鑑賞写真」という2つの側面から、科学写真的な側面での「やってよさそうなこと」の考察と、それでもなおグレーな手法が多くあることが指摘されています。 アンケートやってみました https://twitter.com/tenmonReflexion/status/894703717701754880 天体写真は「科学写真」なのか「鑑賞写真」なのか。それともなんでもありの「アート」なのか。言葉の定義も明確にしない上でのサンプル数の少ない中での集計ですが、結果はこの通り。 この比率、多くの方の感覚に合っているのではないかと思います。天体写真は、天体という美しいものをいかに表現するかが主なテーマだけど、やっぱり「科学性」とも無縁ではないし、ありありの「アート」の世界とも一線を引きたい・・ https://twitter.com/tenmonReflexion/status/894714046896775170 天文民の非難の的になる「ハメコミ合成写真」についても聞いてみました。容認派と残念派の比率は1:2。この数字については、人それぞれ思うところがあるのかと思いますが、おそらくは容認派は増えつつあるものと推測します。 また、「そんなものは絶対に許さない」という過激な意見はほんの一部。過激な一部の意見だけがより目立つ、というネット界の法則通りです。 https://twitter.com/tenmonReflexion/status/894721143168311296 この設問は「仲間うちでの評価」「よりオープンな世界での評価」のどちらを重視しているのか、自己承認とコミュニケーションのどちらを主眼においているのか、SNSがどこまで無意識的な存在になっているのかを知りたかったのですが、ごっちゃすぎて役立たずの結果になってしまいました。 感想としては、天文民は思っていたほどクローズでもないし、自己承認欲求だけがモチベーションではない、というところです。 様々なご意見をお寄せいただきました。 いくつかピックアップしてご紹介します。 https://twitter.com/sakechikara/status/894750708578123776 2大天文誌のフォトコンが、合成に関するレギュレーションを明確にしていない件。 https://twitter.com/rna/status/894782437355511809 「科学写真」の一線を越えないための1つの方法が「再現性の担保」(やり方を明示しそのとおりやれば誰がやっても同じ結果が得られる)です。それを明確化することがこのツイートでいうところの「説明責任」。 画像処理のテクニックが精緻化する一方の中、再現可能なプロセスを明示するのも、「やっていい/悪い」プロセスを明示するのは大変そう。 https://twitter.com/656nm_freak/status/894924793568305152 元のテーマから既に離れていますが、フォトコンという一定のルールの下でのゲームから離れることで、自分にとっての楽しみがより充実した、というお話。 アサヒカメラ2017年1月号。姑息な合成写真ではなく、正々堂々と、合成写真の「表現」で勝負せよ、との主旨の、読み応えのある特集があります。表紙は壇蜜。 で、結論は? 残念ながら(?)結論はありません。 編集子自身の考えとしては、かつては「露骨な合成」にはかなり批判的な意見をもっていて、こんな記事を書いたり、こんなグループを立ち上げてみたこともありました。結果としてブロックを喰らったこともございますw が、今の立場は、明らかな犯罪行為ないしはそれを推奨する行為でない限り、許されない画像処理というものは存在しない、です。 もうすこしくどく言うと、許されるかどうかはあるコミュニティの明示的・暗黙的なルールの問題であって、自分がどのコミュニティに属する(ないしはどこにも属さない)かも個人の自由です。 あるコミュニティが自分のルールをどこまで明示し、どのようにそれを運用するかもコミュニティの問題。天文雑誌の編集方針もフォトコンのルール、SNSの「ローカルルール」もまたしかり。 そして、それが誰にどのくらい支持されるかが、そのコミュニティの「存在感」または「存在価値」ではないかと思うのです。 編集部山口 千宗kojiro7inukai@gmail.comAdministrator天文リフレクションズ編集長です。天リフOriginal
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