編集長、ビジネスキャリアを語る
年末年始スペシャル企画、天リフ編集部が編集長山口千宗氏に迫るロングインタビュー第5回。
天文学者への道をあきらめた山口氏。最初の就職先はあの会社だった!30年間のサラリーマン遍歴を語ります。

 

「かもめ」に対する思い

ー山口さんはかもめ星雲(IC2177)がお好きだそうですね。

山口はい。美しい色と印象的な形ですね。特に「かもめ」に似ているので気に入っています。ほら、昔こんなロゴの会社があったでしょう?



HARMONIES ハーモニーズ(Ameblo版) https://ameblo.jp/atom-green-0201/entry-11466835266.html

ーえーっと。この会社ですね。今はこのロゴはもう使われていないんですね。

山口:OBとしてはちょっと残念ですね。このロゴは亀倉雄策さんという伝説的な商業デザイナーの方がデザインされたものです。「ニコンF」のデザインも亀倉先生によるものです。

ー山口さんは「元リク」だったんですね。リクルートのOBは凄いってビジネス界では有名ですね。

山口そうみたいですね。私は小物なんでRブランドの恩恵には縁がなかったのですが、折角なので「元リクの山口の天リフは凄いらしい」っていう噂を流しておきたくて、敢えて言わせていただきました。

配属の夜の「仮面舞踏会」

ーなんでまたそんな会社に入ったんですか?

山口就職活動をしなくて済んだんで。高校の同級生がR社で採用をやっていて、有名な「アンケートのバイトの体裁の青田買い採用」です。当時バブル全盛期で同期が1000人もいたという伝説の大量採用時代のことです。
会社としても情報通信に力を入れていくという感じで、いろんなことをリセットして新しいことをやってみたいという気持ちもあり、まあ何かやれることあるかもなあ、という感じでした。

当時の新入社員名簿。グループで1600人。表紙にもバブルの世相が。

ー入社してみてどう感じましたか?

山口いやもう、驚きの連続でした。最初に配属された部署で、怪しげな業界人のような人にオフィスの中にある「道場」という場所に5人の同期とともに連行され、いきなり「仮面舞踏会」の踊りの練習です。その夜の歓迎会の出し物でした。

ーうまく踊れましたか?

山口最初は冗談かと思ったのですが、かなりの本気モードであることがすぐにわかりました。学生時代はずっとテレビもない生活でしたので、少年隊も仮面舞踏会も知らなかったし、踊りなんてものはフォークダンスくらいしか経験がなかったのですが、もうやるしかありません^^
幸いにもけっこうウケたみたいで、斎藤さんの結婚式の時にはメンバー5人が再結集し踊りを披露しました。斎藤さんの指示ですけどw

ーそんな会社になじめたんですか?

山口一事が万事そんなところだったのですが、ビジネスとしてもカルチャーとしてもエネルギーに溢れたいい会社でした。ビジネスとしての合理性を組織に落とし込んで収益を上げるという意味においては、それ以降に在籍した会社の中でも一番しっかりしていたと今でも思っています。

R社4年目。みんな若くて青春してました。

「社会人」という存在にまったく具体的イメージを持たずに就職した自分にとっては、全てを教えてもらったという感想しかありません。

Macintosh的世界観との出会い

ーリクルートには6年ほど在籍されたそうですね。どんなことをされていたんですか?

山口組織的にはいろいろ変わりましたが、基本的には「社内情報システム(IS)部門」と呼ばれる部署にいました。リクルートの中では一番「暗い」と呼ばれていたところなのですが、とびきり変な人もいました。最初の2年ほど直属の上司としてご指導いただいた前出の斎藤さんです。

ー後にあのシーマンを作った方ですね。

山口はい。IS部門の中では完全に異端児で、周りの人間をとことん振り回しながら部署のミッションを飛び越えてやりたいことを実現させてしまうという人でした。内定者全員にコンピューター研修を受けさせたり、社内オリジナルの「OAスキル」の認定試験制度を立ち上げたり。企業の中で時代を先がけたことをボトムアップで実現することがいかに困難で凄いことなのかを当時の自分は全く理解できていませんでした。

OA資格取得者に対して発行されたライセンスカード。社員番号が磁気ストライプに入っていたらしいがそれが使われることはなかった。

ー斎藤さんはMacintoshの研究家としても有名です。

山口はい。当時リクルートはIBM一本だったのですが、彼だけがフロッピーベースの私物のMacをオフィスに持ち込んでそれを使っていました。
あるとき深夜まで斎藤さんと仕事をしていると、斎藤さんが突然「Mac書道」で「情報通信」と書いてプリンタでジージーと出力し「これやるよ、山口。情ニ報イレバ信ニ通ズ、だよな」とささやきました。その印字、残しておけばよかったですね。

ー斎藤さんにMacintosh的世界観をたたきこまれた、というわけですね。

山口斎藤さんにはずいぶん反発したりして、どちらも手を焼かされたと思っているでしょうが、少しづつ彼の主張するものを理解するにつれ、大いにリスペクトするようになりました。

コンピューターの未来にある姿

ーMacintosh的世界観とはどのようなものなのですか?

山口当時のIS部門的価値観でいえば「コンピューターは道具なのだからうまく使えばよい」という考えが主流でした。車輪やカナヅチと同じで、道具は道具、使ってなんぼという考え方です。

ーそれが間違っているようには思えませんが。

山口一つの問題は、「道具としてうまく使えるようにまるでなっていない」ということでした。今からでは信じられないことですが、DOSプロンプトからの呪文が使えないと、表計算ひとつできなかったわけです。これに対して「Macintosh的世界観」では道具とは人間がすでに会得している直感とメタファーだけで使えるべきものであるべき、となります。

初めて買ったMac、カラークラシック。寮の自室で。カギを忘れ窓から部屋に入るためにガラスを破ったまま。。

ー今となっては当たり前のことです。

山口はい。でも当時はこのことさえ十分に認識されていませんでした。今でもマイクロソフト社の理解は不十分だと思いますがね。
それともう一つ。コンピュータはただの「道具」なのか?という疑問です。「車輪」の発明によって戦車ができ、それをうまく使った軍隊は勝利をおさめた。ここまでは車輪は「国同士のケンカに勝つための道具」です。
でも車輪はその後他の技術との組み合わせによって何度も世界を変えていきます。現代のような舗装道路のネットワークによる物流の姿もまた「車輪」がもたらしたものです。

ーある種の「道具」には想像をはるかに超えて世界を変えてゆく力があると。

山口そのとおりです。コンピューターは間違いなく世界を大きく急速に変えていく力がある。車輪や内燃機関の発明以上に。「道具」という範囲でうまく使うことはもちろん大事だが、コンピュータが変えていく世界の姿を見たい。できるなら自分の手でそれを実現したい。それが斎藤さんに教えられたもうひとつの「Macintosh的世界観」です。

「最前線」に出る

ー自分の手で実現したい、というのは世界観というよりも野望ですね。

山口はい。スティーブ・ジョブズ的野望ですね。しかもそのジョブズですら、当時権力闘争に敗れ不遇の時代を過ごしています。私が野望に燃えてリクルートを退職した1994年当時は、マイクロソフトが単純な道具としてのMacintoshを模倣し、世界が「悪の帝国」にまさに支配されはじめようとしていた時です。

今もなぜか手元にあるNeXTのチュートリアルビデオ。このコンピュータのOSのコードが30年近く経った今も、MacOSで動いているのは感慨深い。

ーなぜ転職されたのですか?

山口リクルートでもそれなりに「Macintosh的世界観」に即した仕事をすることができました。今でいう「インストーラー」や「ランチャー」、DOSで動かせるキャラクタベースのウィンドウフレームワークなどです。

当時のR社の全パソコンに入っていたランチャーソフト「Rメニュー」。リソースをテキストファイルに分離しカスタマイズ自由という優れもの。

でも、当時のリクルートはまだ「道具を使う」という考えが主流でしたし、コンピューターの世界の最前線で今起きていることからは離れた立ち位置でした。最前線に出たかった。それで転職を決意しました。

ー転職先は「一太郎」のジャストシステムだそうですね。

山口米国のアップルに行きたかったのですが、ネイティブ級に英語が使るわけでもなく、正直言ってアップルで即戦力になれる具体的スキルを持っていたわけでもありませんでした。それで取りあえず日本のジャストに応募してみたらトントンと採用に至ったのでそこは迷わず入社しました。

打倒ゲイツ。「世界を変える」という野望

ージャストに入社して何をされたのですか。

山口まず壁紙を書きました。「打倒ゲイツ」です。

ーはあ。お上手で。。ジャスト社の印象は前職のリクルートと比べてどうでしたか?



当時のリクルートは営業の会社でした。ソフトウェアで世界を変えたいと思って入社する人間など一人もいなかった。そんな中では自分は「最も技術寄り」の人間でした。
それがジャストに入社してみると全くの逆です。開発系の人間はもう骨の髄までのエンジニアなわけです。いまやっている技術をどう売るかとか、納期通りに仕上げることには、あまり優先度を置かないタイプの人たちでした。

ーなるほど。文系/理系とか営業/技術のような2元論は相対的なものですからね。

入社したときは自分自身がエンジニアとして戦いたいというつもりだったのですが、プランニング・マーケティング的な立場で製品開発に携わることになり、主にOfficeManager2という製品の次期バージョン「JOSS」というものを担当していました。まあもう誰も知りませんよね。

当時担当していた製品。OfficeManager2は某カメラメーカー様でも採用されていた。

世界は変えられなかったけれど

ーところで、最前線に出るという希望は叶えられたのですか?

山口はい。まさに最前線です。しかも、当時のジャストの基盤技術である「Just Window」が仇敵「Windows」にまさに駆逐される寸前という全面的に不利な戦況にありました。一方で業績的には絶好調で入社した年の決算は過去最高の売上260億。業績がピークで曲がり角を迎えた、そんな時期です。
当時700人くらいの社員規模だったのですが、開発のキーマンクラスが一同に会しても広めの会議室に全員が入るくらいの規模です。皆優秀なエンジニアばかりなのですが、巨大なライバルを相手にするには「これは苦しい戦いだな」と予感しました。

ーなるほど。それで世界は変えられたのでしょうか。

山口イヤな聞き方をされますね。。今振り返ると結局ジャストは世界を変えようとあがき続けましたが、結果としてそれを実現するプロダクトを世に残すことはできませんでした。
ただ2つだけはっきり言えることがあります。一つはジャストには世界を変えうる可能性をもった技術と製品が確かにありました。ジャストにはFacebookになれる可能性も、Googleになれる可能性すらあったのです。

世界を変えることができず、J社を去る日。

ー負け犬の遠吠えにしか聞こえません。

山口ほんとイヤな人ですね・・
もう一つは、ジャスト社は今でも存続しかなりの優良企業であることです。当時の経営陣や中心だった社員の多くは去っていますが。世界を変えなくても企業は存続できるし、社員は幸せになれるということです。

ーところでこれまでのお話の中で全く天文の話が出てきませんが、何もされていなかったのですか?

山口就職してからやったことといえば、天文ガイドを三回だけ買ったことと、百武彗星を見に行ったこと、たまたま旅行先でへールホッブを見たくらいです。
天文ガイドは高槻さんがいつか編集長になるだろうと思っていたのでそれを確認するためです。本屋で見かけると奥付をチェックしていました。

ITベンチャーの立ち上げに参加する

ー結局ジャストを1999年に退職されました。

山口自分としてはいろいろと必死で食らいついたつもりでしたが、夢破れたりです。ビジネスは未来がどこにあるかを見据えてそれに向かって半歩先の次の一手を戦略的に出さなければいけないことは頭では分かっているつもりでも、つい遠い未来の夢を見てしまいます。
当時のジャストのオーナーの浮川夫妻は私よりもはるかに未来の夢しか見ないタイプです。本当ならその夢の実現を手伝うべきだったのかもしれませんが、退職直前は私自身は全く逆に会社を現実路線に戻して建て直すべきだと考えていました。その方向がないと判断したときに退職を決意しました。

ーその次はITベンチャーの立ち上げに参加されました。

山口インターネットが本格的なビジネスにツールとして使えるという認識が一般にも広まり、多くのベンチャーが立ち上がった頃です。幸いにもジャストさんからお声がけをいただいて、新しく立ち上がる会社に技術担当として参加しました。

ー今度はどんな野望だったのですか?

山口ちょっと野望には疲れていました。遠い夢を見すぎず、現実に即した形で短いスパンでのExitを目指していた会社で、人数も少なく技術的にはフリーハンドをもらえるとのことでしたので、短期決戦のつもりで臨みました。

ーそこではどんなことをされたのですか?

山口会社の設立コンセプトとしては、最近よくいわれるようになった「データサイエンス」を技術面での武器にした、IT系の戦略コンサルファームのような位置づけです。当時SIPS(戦略インターネットコンサルティング)と呼ばれていたカテゴリです。
実は今思うと「データサイエンス」は時代を先取りしすぎでした。当時のインターネットはまだまだ貧弱で、ビッグなデータなんて集めようも、解析のしようもなかったのです。

インターネットマーケティング

ー会社は順調に立ち上がったのですか?

山口SIPSという言葉が今死語になっていることからわかるように、設立時のコンセプトはうまくいきませんでした。ただその中で、一つの鉱脈を見つけそれに特化することになりました。インターネットマーケティングです。

ーそれはどのようなものだったのですか?

山口本来は非常に広い意味を持つ分野ですが、やったことは「ネット懸賞」です。缶コーヒーに番号が書いたシールが貼ってあって、それをネットで応募したら商品が当たる。そのキャンペーンシステムの開発と運用が会社の主力サービスとなりました。

キャンペーンの賞品、BOSSジャン。これは嫁がヤフオクで買ってくれたもの。

クライアントは広告宣伝予算を潤沢に持つナショナルカンパニーですから、かなり大きなビジネスになりました。3期目にはけっこうな売上と黒字を出しています。

ー仕事としては面白かったですか?

山口自分でほとんどゼロから組上げたシステムで技術的にもピーク時に2桁上がる負荷に耐えるようにするために、かなりいろんな工夫と苦労がありました。今の技術ならもっとシンプルでスマートにできるのでしょうが、もう何が何でも納期通りに稼働させ、トラブル無く終えることで信用を掴むしかない状況でしたから、もう必死でした。年間330日、朝の7時から夜の9時まで働きました。

ー完全にブラックですね・・・

山口自分は経営側でもあったのでブラックだと思ったことはなかったですが、若いメンバーはそうは思わなかったでしょうね。

ーいつまでその会社にいらしたのですか?

山口その後色々な経緯があって代理店系の子会社と合併したのですが、その2年くらい後に退職しました。2000年の設立から約7年間、ここでは語り尽くせぬ友情と勝利と努力、そして修羅場がありました。ビジネスキャリアとしては一番濃い時間でした。

サラリーマン最後の挑戦

ーいろんなことをこれまでされてきたのですね。最後に退職された会社は何社目だったのですか?

山口えーと、6社目になりますね。最後の会社はジャスト時代に役員をされていた方が作った会社で、その時のご縁でお声がけいただきました。その時も自分で何か始めようと思っていたのですが、必要とされているのならその機会は生かすべきだと考えているので、こちらも細かいことは抜きにして決断しました。

ーどのような会社だったのですが?

山口主力はデジタル放送の映像をPCやスマホで扱えるようにする技術と製品です。社長の田浦さんもまた「世界を変える」という野望を抱いてこの業界を生き延びてこられた方です。私もまだ「世界を変えたい」という夢を捨てきれないでいました。

ーそこではどんなことをされたのですか?

山口前半は大手のキャリア様の新規サービスを企画する部署の開発のお手伝いをしていました。いわゆるプロマネですね。これもいろいろありましたが、長くなるのでやめておきます。

ー世界は変わりましたか?

山口意地が悪いですね。世界は簡単には変わりません。ジョブズがあれほど何度も世界を変えてきたのは凄すぎることで「永世地球民栄誉賞」でもまだ足りないくらいです。
ジョブズは私にとって永遠のヒーローですが、自分のサイズ感はいやというほど知っていたので、世界を変えられなくても仕事と人生を楽しめるくらいにはオトナになっていました。

ーそして後半のお仕事から天リフにつながっていくわけですね。

山口はい。サラリーマン最後の仕事については第二回でも少しお話ししました。これでもやっぱり世界は変えられませんでしたが、天リフで小さくても世界の片隅の何かをほんの少しでも変えていければと思っています。

ー今回もありがとうございました。山口さんのキャリアは失敗の歴史のようにも思えますが、次回では天リフのこれからについて語っていただきます。

山口ほんとに意地悪ですね。でも今回こそ成功させたいと思っていますので。ありがとうございました。 https://reflexions.jp/tenref/orig/wp-content/uploads/sites/4/2018/01/e51c528b4aa2779dfc6e3c4a9504f1c72-1024x538.jpghttps://reflexions.jp/tenref/orig/wp-content/uploads/sites/4/2018/01/e51c528b4aa2779dfc6e3c4a9504f1c72-150x150.jpg編集部編集長ロングインタビュー  編集長、ビジネスキャリアを語る 年末年始スペシャル企画、天リフ編集部が編集長山口千宗氏に迫るロングインタビュー第5回。 天文学者への道をあきらめた山口氏。最初の就職先はあの会社だった!30年間のサラリーマン遍歴を語ります。   「かもめ」に対する思い ー山口さんはかもめ星雲(IC2177)がお好きだそうですね。 山口:はい。美しい色と印象的な形ですね。特に「かもめ」に似ているので気に入っています。ほら、昔こんなロゴの会社があったでしょう? ーえーっと。この会社ですね。今はこのロゴはもう使われていないんですね。 山口:OBとしてはちょっと残念ですね。このロゴは亀倉雄策さんという伝説的な商業デザイナーの方がデザインされたものです。「ニコンF」のデザインも亀倉先生によるものです。 ー山口さんは「元リク」だったんですね。リクルートのOBは凄いってビジネス界では有名ですね。 山口:そうみたいですね。私は小物なんでRブランドの恩恵には縁がなかったのですが、折角なので「元リクの山口の天リフは凄いらしい」っていう噂を流しておきたくて、敢えて言わせていただきました。 配属の夜の「仮面舞踏会」 ーなんでまたそんな会社に入ったんですか? 山口:就職活動をしなくて済んだんで。高校の同級生がR社で採用をやっていて、有名な「アンケートのバイトの体裁の青田買い採用」です。当時バブル全盛期で同期が1000人もいたという伝説の大量採用時代のことです。 会社としても情報通信に力を入れていくという感じで、いろんなことをリセットして新しいことをやってみたいという気持ちもあり、まあ何かやれることあるかもなあ、という感じでした。 ー入社してみてどう感じましたか? 山口:いやもう、驚きの連続でした。最初に配属された部署で、怪しげな業界人のような人にオフィスの中にある「道場」という場所に5人の同期とともに連行され、いきなり「仮面舞踏会」の踊りの練習です。その夜の歓迎会の出し物でした。 ーうまく踊れましたか? 山口:最初は冗談かと思ったのですが、かなりの本気モードであることがすぐにわかりました。学生時代はずっとテレビもない生活でしたので、少年隊も仮面舞踏会も知らなかったし、踊りなんてものはフォークダンスくらいしか経験がなかったのですが、もうやるしかありません^^ 幸いにもけっこうウケたみたいで、斎藤さんの結婚式の時にはメンバー5人が再結集し踊りを披露しました。斎藤さんの指示ですけどw ーそんな会社になじめたんですか? 山口:一事が万事そんなところだったのですが、ビジネスとしてもカルチャーとしてもエネルギーに溢れたいい会社でした。ビジネスとしての合理性を組織に落とし込んで収益を上げるという意味においては、それ以降に在籍した会社の中でも一番しっかりしていたと今でも思っています。 「社会人」という存在にまったく具体的イメージを持たずに就職した自分にとっては、全てを教えてもらったという感想しかありません。 Macintosh的世界観との出会い ーリクルートには6年ほど在籍されたそうですね。どんなことをされていたんですか? 山口:組織的にはいろいろ変わりましたが、基本的には「社内情報システム(IS)部門」と呼ばれる部署にいました。リクルートの中では一番「暗い」と呼ばれていたところなのですが、とびきり変な人もいました。最初の2年ほど直属の上司としてご指導いただいた前出の斎藤さんです。 ー後にあのシーマンを作った方ですね。 山口:はい。IS部門の中では完全に異端児で、周りの人間をとことん振り回しながら部署のミッションを飛び越えてやりたいことを実現させてしまうという人でした。内定者全員にコンピューター研修を受けさせたり、社内オリジナルの「OAスキル」の認定試験制度を立ち上げたり。企業の中で時代を先がけたことをボトムアップで実現することがいかに困難で凄いことなのかを当時の自分は全く理解できていませんでした。 ー斎藤さんはMacintoshの研究家としても有名です。 山口:はい。当時リクルートはIBM一本だったのですが、彼だけがフロッピーベースの私物のMacをオフィスに持ち込んでそれを使っていました。 あるとき深夜まで斎藤さんと仕事をしていると、斎藤さんが突然「Mac書道」で「情報通信」と書いてプリンタでジージーと出力し「これやるよ、山口。情ニ報イレバ信ニ通ズ、だよな」とささやきました。その印字、残しておけばよかったですね。 ー斎藤さんにMacintosh的世界観をたたきこまれた、というわけですね。 山口:斎藤さんにはずいぶん反発したりして、どちらも手を焼かされたと思っているでしょうが、少しづつ彼の主張するものを理解するにつれ、大いにリスペクトするようになりました。 コンピューターの未来にある姿 ーMacintosh的世界観とはどのようなものなのですか? 山口:当時のIS部門的価値観でいえば「コンピューターは道具なのだからうまく使えばよい」という考えが主流でした。車輪やカナヅチと同じで、道具は道具、使ってなんぼという考え方です。 ーそれが間違っているようには思えませんが。 山口:一つの問題は、「道具としてうまく使えるようにまるでなっていない」ということでした。今からでは信じられないことですが、DOSプロンプトからの呪文が使えないと、表計算ひとつできなかったわけです。これに対して「Macintosh的世界観」では道具とは人間がすでに会得している直感とメタファーだけで使えるべきものであるべき、となります。 ー今となっては当たり前のことです。 山口:はい。でも当時はこのことさえ十分に認識されていませんでした。今でもマイクロソフト社の理解は不十分だと思いますがね。 それともう一つ。コンピュータはただの「道具」なのか?という疑問です。「車輪」の発明によって戦車ができ、それをうまく使った軍隊は勝利をおさめた。ここまでは車輪は「国同士のケンカに勝つための道具」です。 でも車輪はその後他の技術との組み合わせによって何度も世界を変えていきます。現代のような舗装道路のネットワークによる物流の姿もまた「車輪」がもたらしたものです。 ーある種の「道具」には想像をはるかに超えて世界を変えてゆく力があると。 山口:そのとおりです。コンピューターは間違いなく世界を大きく急速に変えていく力がある。車輪や内燃機関の発明以上に。「道具」という範囲でうまく使うことはもちろん大事だが、コンピュータが変えていく世界の姿を見たい。できるなら自分の手でそれを実現したい。それが斎藤さんに教えられたもうひとつの「Macintosh的世界観」です。 「最前線」に出る ー自分の手で実現したい、というのは世界観というよりも野望ですね。 山口:はい。スティーブ・ジョブズ的野望ですね。しかもそのジョブズですら、当時権力闘争に敗れ不遇の時代を過ごしています。私が野望に燃えてリクルートを退職した1994年当時は、マイクロソフトが単純な道具としてのMacintoshを模倣し、世界が「悪の帝国」にまさに支配されはじめようとしていた時です。 ーなぜ転職されたのですか? 山口:リクルートでもそれなりに「Macintosh的世界観」に即した仕事をすることができました。今でいう「インストーラー」や「ランチャー」、DOSで動かせるキャラクタベースのウィンドウフレームワークなどです。 でも、当時のリクルートはまだ「道具を使う」という考えが主流でしたし、コンピューターの世界の最前線で今起きていることからは離れた立ち位置でした。最前線に出たかった。それで転職を決意しました。 ー転職先は「一太郎」のジャストシステムだそうですね。 山口:米国のアップルに行きたかったのですが、ネイティブ級に英語が使るわけでもなく、正直言ってアップルで即戦力になれる具体的スキルを持っていたわけでもありませんでした。それで取りあえず日本のジャストに応募してみたらトントンと採用に至ったのでそこは迷わず入社しました。 打倒ゲイツ。「世界を変える」という野望 ージャストに入社して何をされたのですか。 山口:まず壁紙を書きました。「打倒ゲイツ」です。 ーはあ。お上手で。。ジャスト社の印象は前職のリクルートと比べてどうでしたか? 当時のリクルートは営業の会社でした。ソフトウェアで世界を変えたいと思って入社する人間など一人もいなかった。そんな中では自分は「最も技術寄り」の人間でした。 それがジャストに入社してみると全くの逆です。開発系の人間はもう骨の髄までのエンジニアなわけです。いまやっている技術をどう売るかとか、納期通りに仕上げることには、あまり優先度を置かないタイプの人たちでした。 ーなるほど。文系/理系とか営業/技術のような2元論は相対的なものですからね。 入社したときは自分自身がエンジニアとして戦いたいというつもりだったのですが、プランニング・マーケティング的な立場で製品開発に携わることになり、主にOfficeManager2という製品の次期バージョン「JOSS」というものを担当していました。まあもう誰も知りませんよね。 世界は変えられなかったけれど ーところで、最前線に出るという希望は叶えられたのですか? 山口:はい。まさに最前線です。しかも、当時のジャストの基盤技術である「Just Window」が仇敵「Windows」にまさに駆逐される寸前という全面的に不利な戦況にありました。一方で業績的には絶好調で入社した年の決算は過去最高の売上260億。業績がピークで曲がり角を迎えた、そんな時期です。 当時700人くらいの社員規模だったのですが、開発のキーマンクラスが一同に会しても広めの会議室に全員が入るくらいの規模です。皆優秀なエンジニアばかりなのですが、巨大なライバルを相手にするには「これは苦しい戦いだな」と予感しました。 ーなるほど。それで世界は変えられたのでしょうか。 山口:イヤな聞き方をされますね。。今振り返ると結局ジャストは世界を変えようとあがき続けましたが、結果としてそれを実現するプロダクトを世に残すことはできませんでした。 ただ2つだけはっきり言えることがあります。一つはジャストには世界を変えうる可能性をもった技術と製品が確かにありました。ジャストにはFacebookになれる可能性も、Googleになれる可能性すらあったのです。 ー負け犬の遠吠えにしか聞こえません。 山口:ほんとイヤな人ですね・・ もう一つは、ジャスト社は今でも存続しかなりの優良企業であることです。当時の経営陣や中心だった社員の多くは去っていますが。世界を変えなくても企業は存続できるし、社員は幸せになれるということです。 ーところでこれまでのお話の中で全く天文の話が出てきませんが、何もされていなかったのですか? 山口:就職してからやったことといえば、天文ガイドを三回だけ買ったことと、百武彗星を見に行ったこと、たまたま旅行先でへールホッブを見たくらいです。 天文ガイドは高槻さんがいつか編集長になるだろうと思っていたのでそれを確認するためです。本屋で見かけると奥付をチェックしていました。 ITベンチャーの立ち上げに参加する ー結局ジャストを1999年に退職されました。 山口:自分としてはいろいろと必死で食らいついたつもりでしたが、夢破れたりです。ビジネスは未来がどこにあるかを見据えてそれに向かって半歩先の次の一手を戦略的に出さなければいけないことは頭では分かっているつもりでも、つい遠い未来の夢を見てしまいます。 当時のジャストのオーナーの浮川夫妻は私よりもはるかに未来の夢しか見ないタイプです。本当ならその夢の実現を手伝うべきだったのかもしれませんが、退職直前は私自身は全く逆に会社を現実路線に戻して建て直すべきだと考えていました。その方向がないと判断したときに退職を決意しました。 ーその次はITベンチャーの立ち上げに参加されました。 山口:インターネットが本格的なビジネスにツールとして使えるという認識が一般にも広まり、多くのベンチャーが立ち上がった頃です。幸いにもジャストさんからお声がけをいただいて、新しく立ち上がる会社に技術担当として参加しました。 ー今度はどんな野望だったのですか? 山口:ちょっと野望には疲れていました。遠い夢を見すぎず、現実に即した形で短いスパンでのExitを目指していた会社で、人数も少なく技術的にはフリーハンドをもらえるとのことでしたので、短期決戦のつもりで臨みました。 ーそこではどんなことをされたのですか? 山口:会社の設立コンセプトとしては、最近よくいわれるようになった「データサイエンス」を技術面での武器にした、IT系の戦略コンサルファームのような位置づけです。当時SIPS(戦略インターネットコンサルティング)と呼ばれていたカテゴリです。 実は今思うと「データサイエンス」は時代を先取りしすぎでした。当時のインターネットはまだまだ貧弱で、ビッグなデータなんて集めようも、解析のしようもなかったのです。 インターネットマーケティング ー会社は順調に立ち上がったのですか? 山口:SIPSという言葉が今死語になっていることからわかるように、設立時のコンセプトはうまくいきませんでした。ただその中で、一つの鉱脈を見つけそれに特化することになりました。インターネットマーケティングです。 ーそれはどのようなものだったのですか? 山口:本来は非常に広い意味を持つ分野ですが、やったことは「ネット懸賞」です。缶コーヒーに番号が書いたシールが貼ってあって、それをネットで応募したら商品が当たる。そのキャンペーンシステムの開発と運用が会社の主力サービスとなりました。 クライアントは広告宣伝予算を潤沢に持つナショナルカンパニーですから、かなり大きなビジネスになりました。3期目にはけっこうな売上と黒字を出しています。 ー仕事としては面白かったですか? 山口:自分でほとんどゼロから組上げたシステムで技術的にもピーク時に2桁上がる負荷に耐えるようにするために、かなりいろんな工夫と苦労がありました。今の技術ならもっとシンプルでスマートにできるのでしょうが、もう何が何でも納期通りに稼働させ、トラブル無く終えることで信用を掴むしかない状況でしたから、もう必死でした。年間330日、朝の7時から夜の9時まで働きました。 ー完全にブラックですね・・・ 山口:自分は経営側でもあったのでブラックだと思ったことはなかったですが、若いメンバーはそうは思わなかったでしょうね。 ーいつまでその会社にいらしたのですか? 山口:その後色々な経緯があって代理店系の子会社と合併したのですが、その2年くらい後に退職しました。2000年の設立から約7年間、ここでは語り尽くせぬ友情と勝利と努力、そして修羅場がありました。ビジネスキャリアとしては一番濃い時間でした。 サラリーマン最後の挑戦 ーいろんなことをこれまでされてきたのですね。最後に退職された会社は何社目だったのですか? 山口:えーと、6社目になりますね。最後の会社はジャスト時代に役員をされていた方が作った会社で、その時のご縁でお声がけいただきました。その時も自分で何か始めようと思っていたのですが、必要とされているのならその機会は生かすべきだと考えているので、こちらも細かいことは抜きにして決断しました。 ーどのような会社だったのですが? 山口:主力はデジタル放送の映像をPCやスマホで扱えるようにする技術と製品です。社長の田浦さんもまた「世界を変える」という野望を抱いてこの業界を生き延びてこられた方です。私もまだ「世界を変えたい」という夢を捨てきれないでいました。 ーそこではどんなことをされたのですか? 山口:前半は大手のキャリア様の新規サービスを企画する部署の開発のお手伝いをしていました。いわゆるプロマネですね。これもいろいろありましたが、長くなるのでやめておきます。 ー世界は変わりましたか? 山口:意地が悪いですね。世界は簡単には変わりません。ジョブズがあれほど何度も世界を変えてきたのは凄すぎることで「永世地球民栄誉賞」でもまだ足りないくらいです。 ジョブズは私にとって永遠のヒーローですが、自分のサイズ感はいやというほど知っていたので、世界を変えられなくても仕事と人生を楽しめるくらいにはオトナになっていました。 ーそして後半のお仕事から天リフにつながっていくわけですね。 山口:はい。サラリーマン最後の仕事については第二回でも少しお話ししました。これでもやっぱり世界は変えられませんでしたが、天リフで小さくても世界の片隅の何かをほんの少しでも変えていければと思っています。 ー今回もありがとうございました。山口さんのキャリアは失敗の歴史のようにも思えますが、次回では天リフのこれからについて語っていただきます。 山口:ほんとに意地悪ですね。でも今回こそ成功させたいと思っていますので。ありがとうございました。編集部発信のオリジナルコンテンツ