【「レタッチしすぎの罠」を斬る】アサヒカメラの「炎上商法」に天リフが怒りの一撃!【第1回】
何かと攻めているアサヒカメラですが、今月も話題の記事がありました。SNSでいろいろと話題になっているようで、不肖・天リフ編集長もひさしぶりにアサヒカメラ誌をkindleストアで買って読んでみました。
その感想を一言でいえばこのツイートになります。
PRTIMES「インスタ映え」にアサヒカメラが怒りの一撃!ギラギラした風景写真はもう要らない。
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000769.000004702.html
こちらのプレスリリースの「営業トーク」が可燃成分満載。大いに期待していたのですが、肩すかしを食らった感じです。米美知子さんのことは筆者は実はよく知らないのですが(*)、書かれている問題意識には大いに同意するものもあります。でもこんなある意味当たり前のことを深く掘り下げずに(談)という形で語る(という形に編集される)のは正直どうなのでしょうか。
(*)知人の中には「米さんが言うと重みがある。流石の内容だ、身が引き締まる」のような意見もあり、筆者が米美知子さんのことを知らなすぎるだけなのかもしれません。
はっきりいって、これが今のアサヒカメラのレベルなのかとがっかりする思いでいっぱいです。インスタ厨にもの申すのなら「合成」についても踏み込まないとチキンです。自然と不自然、虚構と現実の狭間を無限に拡大する「デジタル写真の世界」に正面から向き合う写真メディアはどこにもないのでしょうか。
今月号で問題提起した「過剰レタッチ問題」が大きな議論を呼んでいます。写真家によって意見は多様であり、もちろん、正解はありません。そういうテーマだからこそ、議論を深めていきたいと考えています。どんどんご意見ください!! #アサヒカメラ #レタッチhttps://t.co/isJFddAhGe
— アサヒカメラ編集部 (@asahicamera) August 26, 2019
と、えらそうなことをかましましたが、この問題提起について全力で意見したいと思います。
目次
「MAXレタッチ」は誰もが一度は通る道
文章を書くことは楽しい作業でもある。生きることの困難さに比べ、それに意味をつけるのはあまりに簡単だからだ。
十代の頃だろうか、僕はその事実に気がついて一週間ばかり口もきけないほど驚いたことがある。(中略)あらゆる価値は転換し、時は流れを変える・・・そんな気がした。
それが落とし穴だと気づいたのは、不幸なことにずっと後だった。
(村上春樹「風の歌を聴け」より)
文豪・村上春樹が現代のデジタル写真界隈の未来を予見していたのかどうかは知りませんが「創作」という行為の本質を象徴する言説です。
筆者が、「後処理自由自在のデジタル写真」に気がついて3分ばかり口がきけなくなったのは、一眼デジカメを購入して間もない2005年のこの画像でした。
この後夕陽が沈む頃には素晴らしい夕焼けになったのですが、焼ける前の画像でも色温度を変えて強調すればこの通り。色温度をいじり、彩度とコントラストを上げて夕焼けを盛るのはレタッチの初歩です。
その10年後、ようやく筆者はPhotoshopにデビューし、マスク処理やHDR処理などを知りました。その時は1時間ばかり口がきけませんでした。その劇的な効果の例がこの画像です。
レタッチ技術は日進月歩です。「トーンカーブ」「カラーバランス」「彩度」だけだった牧歌的時代はとうに過ぎ、「明瞭度」「かすみの除去」「テクスチャ」「シャドウ」「ハイライト」「自然な彩度」など、スライダー1個でいじれるPhotoshopのパラメータはいくつもあります。そればかりか、マスク・フィルターを駆使すればもうバリエーションは無限です。
そんな風にレタッチ技術が盛られていく中、「レタッチは否定しない」という安全地帯に立ちつつ「彩度+20は自然だが彩度+40は不自然である」と「警鐘」を鳴らすというのは、あまりに牧歌的といわざるを得ません(*)。
(*)あの記事のスペースでレタッチ論を語るわけにもいきませんし、象徴的な形で「彩度」に絞ったのかもしれませんが、周回遅れ感が満載です。
そして今。
筆者はようやく神アプリ「snow」を手にしました。まだ口がきけません。なんですか、これ。たったの3分間クッキングで、これまで見たことのない自分に出会えました。これは120%の奇跡です。
スライダーが、アプリがそこにあるとき、それは動かされるためにあります。誰もが「行きすぎ」を経験します。行きすぎないと行きすぎたこともわかりません。筆者の知る限り(天体写真・星景写真という狭い分野ですが)、ほぼ全てのフォトグラファーは「MAXレタッチの時代」を経て(15秒で過ぎる人もいます^^)個々のスタイルを確立していきます。インスタグラムのオーディエンスもいずれ変わってゆく(*)ことでしょう。
(*)もしそれが変わらず、それがあるべき姿でないとするならば、その時こそ著名カメラマンや写真メディアはそのことについて堂々と論陣を張るべきです。
良いレタッチとは「上手な嘘」
「男は嘘がうまいネ、女は嘘が好きだネ」と歌ったのは中島みゆき様ですが、この言葉にも「虚構」に対する真理が含まれています。
不都合な真実よりも、都合のよい嘘を見たい。騙すなら墓場まで。みんな大好きベルビア(ときどきフォルティア)。「写真(真を写す)」という不自由な名前をまとった「Photograph」ですが、「写実主義」であれ「アート」であれ、嘘のない写真はこの世にはほとんどありません(*)。
(*)科学的なアプローチなら「嘘」はなくなりますが、さまざまな前提と再現性を明確にすることが前提となります。
上手な嘘と下手な嘘の例。左が元画像です。
右は範囲選択ツールでシャドウを選択しトーンカーブで持ち上げています。選択の境目をごまかすためにマスクをぼかしていますが、「いかにもマスク処理しました」的な不自然な結果になってしまいました。
中は黒つぶれをシャドウと明瞭度で持ち上げたPhotoshopのCamera rawだけの処理。こちらのほうがよっぽど上手な嘘(*)です。さすが「みんな大好きPhotoshop」、嘘がうまいネ!
(*)「YOUのデジタルマニアックス」で指摘されていますが、明瞭度をはじめレタッチツールの「賢い系」の機能であったとしても、盛りすぎると「嘘」がバレバレです。
デジタル写真のこの10年ほどの流れの中で起きている一つの大きな変化(*)は「誰でも簡単に上手な嘘がつけるようなった」ことではないでしょうか。その意味では米美知子さんが「レタッチテクニックに走るばっかりで、自然風景がもたらす本来の感動を追いかける人が少ない風潮(超訳)」を嘆かれることには、筆者も大いに共感するものがあります。
(*)連載第3回で触れる予定です。
しかし「楽を覚えてしまった人間は元に戻れない」のは、人類皆同じです。楽を覚えてダメになるような写真家は、楽を覚えなくてもダメです。問題はそこではありません。楽を覚えて何が悪いというのでしょう。
人間の視覚とデジカメの画像はそもそも同じではない
「嘘」を原理主義的に突きつめていくと、人間の視覚そのものにすでに「嘘」があります。網膜には、カメラのイメージセンサーのR,G,B画素に相当する「L錐体」「M錐体」「S錐体」という視覚細胞がありますが、B画素に相当するS錐体は他の細胞の1/10ほどしかありません。生物10億年の進化の歴史の結果、B画素なんてほんの少しで十分ということなのでしょうか。デジタルカメラは「馬鹿正直」なのかもしれませんね。
そればかりか、実はデジカメでは「紫盲」です。人間の眼は波長430nm付近の光を「紫(青+赤)」に感じますが、これは赤を感じるS錐体がこの波長430nm付近にも感度を持っているためです。一方でデジタルカメラのR画素は青い光には全く感度がありません。デジカメでは人間が感じる「波長430nmの紫」を表現できないのです(*)。
(*)参考)http://web.archive.org/web/20100206061515/http://f42.aaa.livedoor.jp/~bands/purple/purple.html
さらに、視覚には個人差もあります。あなたがその眼で見ているものははたしてどこまで「真実」なのか。デジカメと人間の眼は同じではなく明らかな差がある。そんな中で「自然であること」「嘘でないこと」を原理主義的に主張することは不可能だといえるでしょう。
良い嘘と悪い嘘
嘘は、内容やその意図によっては、犯罪になったり嫌われたりします。詐欺師の常套句は「騙すつもりはなかった」ですが、写真でもそれは似たようなものです。
悪意のある嘘は、文字通り「悪」なるものです。しかし、嘘を「虚構」と読みかえたとき、それは弱々しい「真実」以上の強い力を持つことがあります。強い力が込められた創作(虚構)は、単純な善悪を越えた存在になり得るはずです。
嘘と真実の間には、イメージセンサーと同じ8bit〜14bitくらいのグラデーションがある。嘘と真実が描く映像そのものが写真である、というのは言い過ぎでしょうか。
「良い嘘」と「悪い嘘」の境目がどこにあるのかについては、個人の尊厳や生き方にもかかわるあまりに普遍的なテーマです。本稿では手に負えないので割愛しますが、本稿の主張の一つは「自然」と「不自然」の境目がどこにあるのかというテーマもまた、それとおなじくらい簡単ではない、ということです。スライダーの位置がどのへんにあるのか、というような単純で牧歌的な問題ではありません。
良い嘘と悪い嘘を決めるもの
なんでアサヒカメラが怒るのかも分かんないしレタッチし過ぎの何がダメなのか分かんない。写真くらい自由に撮らせろ←
「インスタ映え」にアサヒカメラが怒りの一撃!ギラギラした風景写真はもう要らない。 https://t.co/dWCHflWZZS @PRTIMES_JPより
— ねこぢた (@nekozita93) August 23, 2019
今回のアサヒカメラの記事の「否定派」の意見の代表のひとつがこのツイートだと思います。「写真くらい自由に撮らせろ」。この言葉は別の言い方をすれば「良い悪いをなんであんたに決められないといけないの?」だと思います。
良い嘘と悪い嘘が仮にあるとして、それは誰が決めるのか。誰に決めることができるのか。これまで誰が決めてきたのか。これから誰が決めるのか。
この構図を極端に単純化すると、「写真のよしあし」をが決めてきた存在が、「著名カメラマン」や「権威ある専門誌」「フォトコン」から、SNSの暴力的なまでの拡散力と「イイネ」数に変わってきている、といえるのではないでしょうか。
筆者はこのどちらについても、良い面と悪い面があり、そしてそれこそが「写真メディア」が今、斬り込むべきテーマの一つであると考えています。
合成写真
Tower dream
本間 昭文さんの投稿 2015年6月10日水曜日
冒頭に触れたように「レタッチしすぎの罠」について触れるなら、合成写真についても触れないとチキンです。こちらの作品は4年前、東京カメラ部の投稿からです。
この頃、筆者は合成写真を忌み嫌っていました(*)。その代表作がこれです。
(*)勢い余ってこんなグループも作りました。現在休眠中です。
山口 千宗さんの投稿 2016年12月22日木曜日
煽り文ではアサヒカメラ様をチキン呼ばわりしてしまいましたが、実は2017年1月号に素晴らしい特集を組まれています(*)。姑息な合成写真ではなく、正々堂々と、合成写真の「表現」で勝負せよ、と。
(*)今回もこのクオリティを期待していたのですが。
現在の筆者の立ち位置は「合成とレタッチに本質的な差はない」「善し悪しは作者と作品が決めるもの」です。自分自身はコラージュ合成はやりませんが、やる人はそれで別に構わないと思います(*)。
(*)3年前ならコラージュ合成をしれっとSNSにアップしても「奇跡の絶景だ!」という絶賛の嵐が巻き起こったでしょうが、今ならあからさまなバレバレの合成はSNSでも高い評価にはならないでしょう。
そもそも、いかに合成を否定しようとも、ある作品が合成であるかどうかを見抜くことは困難になっています。合成写真が奇跡の風景と絶賛されることも、逆に合成でない写真が「合成だ!」と非難されることさえあります。「合成警察」「レタッチ警察」は労多くして実りのない行為です。「マウント主義者」以外にはオススメできません^^;;
しかし「合成は禁じ手」と考える立場は、写真に対するいくつかの重要な「主義」の中の一つだと考えています。米美知子さんがインタビューで発言されている内容の多くは「自然主義」ないしは「体験主義」と呼ぶべき立場からだと思います。
この立場には筆者は大いに共感するものですが、だとすれば「レタッチ過剰の風潮を斬る」のではなく、なぜ自分はそんな主義で写真を撮るのかを一般ピープルでもわかる形で語ってほしいと思います(*)。
(*)KAGAYAさんのこのインタビュー記事は筆者のひとつの目標でもあります。
まとめ
いかがでしたか?
リリース文?に書いたように、この後全五回で連載する予定です。天体写真・星景写真という、ひじょうに狭い分野でしか活動していない筆者には手に余る連載なのですが、サムネイル画像を作ったらもう勢いが止まらなくなってしまいました^^;;
もうすこしお付き合いください(*)。
(*)アサヒカメラの次月号が出るまでに連載が終わらなかったら、1年かかると思ってください^^
次回は、写真界隈の権威として君臨している?「フォトコン」についてです。お楽しみに! https://reflexions.jp/tenref/orig/2019/08/29/9410/https://reflexions.jp/tenref/orig/wp-content/uploads/sites/4/2019/08/21926834dd6156c7a5cfb359bc38666c-1024x750.jpghttps://reflexions.jp/tenref/orig/wp-content/uploads/sites/4/2019/08/21926834dd6156c7a5cfb359bc38666c-150x150.jpg写真コラム何かと攻めているアサヒカメラですが、今月も話題の記事がありました。SNSでいろいろと話題になっているようで、不肖・天リフ編集長もひさしぶりにアサヒカメラ誌をkindleストアで買って読んでみました。 その感想を一言でいえばこのツイートになります。 PRTIMES「インスタ映え」にアサヒカメラが怒りの一撃!ギラギラした風景写真はもう要らない。 https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000769.000004702.html こちらのプレスリリースの「営業トーク」が可燃成分満載。大いに期待していたのですが、肩すかしを食らった感じです。米美知子さんのことは筆者は実はよく知らないのですが(*)、書かれている問題意識には大いに同意するものもあります。でもこんなある意味当たり前のことを深く掘り下げずに(談)という形で語る(という形に編集される)のは正直どうなのでしょうか。 (*)知人の中には「米さんが言うと重みがある。流石の内容だ、身が引き締まる」のような意見もあり、筆者が米美知子さんのことを知らなすぎるだけなのかもしれません。 はっきりいって、これが今のアサヒカメラのレベルなのかとがっかりする思いでいっぱいです。インスタ厨にもの申すのなら「合成」についても踏み込まないとチキンです。自然と不自然、虚構と現実の狭間を無限に拡大する「デジタル写真の世界」に正面から向き合う写真メディアはどこにもないのでしょうか。 https://twitter.com/asahicamera/status/1165804077499875328 と、えらそうなことをかましましたが、この問題提起について全力で意見したいと思います。 「MAXレタッチ」は誰もが一度は通る道 文章を書くことは楽しい作業でもある。生きることの困難さに比べ、それに意味をつけるのはあまりに簡単だからだ。 十代の頃だろうか、僕はその事実に気がついて一週間ばかり口もきけないほど驚いたことがある。(中略)あらゆる価値は転換し、時は流れを変える・・・そんな気がした。 それが落とし穴だと気づいたのは、不幸なことにずっと後だった。 (村上春樹「風の歌を聴け」より) 文豪・村上春樹が現代のデジタル写真界隈の未来を予見していたのかどうかは知りませんが「創作」という行為の本質を象徴する言説です。 筆者が、「後処理自由自在のデジタル写真」に気がついて3分ばかり口がきけなくなったのは、一眼デジカメを購入して間もない2005年のこの画像でした。 この後夕陽が沈む頃には素晴らしい夕焼けになったのですが、焼ける前の画像でも色温度を変えて強調すればこの通り。色温度をいじり、彩度とコントラストを上げて夕焼けを盛るのはレタッチの初歩です。 その10年後、ようやく筆者はPhotoshopにデビューし、マスク処理やHDR処理などを知りました。その時は1時間ばかり口がきけませんでした。その劇的な効果の例がこの画像です。 レタッチ技術は日進月歩です。「トーンカーブ」「カラーバランス」「彩度」だけだった牧歌的時代はとうに過ぎ、「明瞭度」「かすみの除去」「テクスチャ」「シャドウ」「ハイライト」「自然な彩度」など、スライダー1個でいじれるPhotoshopのパラメータはいくつもあります。そればかりか、マスク・フィルターを駆使すればもうバリエーションは無限です。 そんな風にレタッチ技術が盛られていく中、「レタッチは否定しない」という安全地帯に立ちつつ「彩度+20は自然だが彩度+40は不自然である」と「警鐘」を鳴らすというのは、あまりに牧歌的といわざるを得ません(*)。 (*)あの記事のスペースでレタッチ論を語るわけにもいきませんし、象徴的な形で「彩度」に絞ったのかもしれませんが、周回遅れ感が満載です。 そして今。 筆者はようやく神アプリ「snow」を手にしました。まだ口がきけません。なんですか、これ。たったの3分間クッキングで、これまで見たことのない自分に出会えました。これは120%の奇跡です。 スライダーが、アプリがそこにあるとき、それは動かされるためにあります。誰もが「行きすぎ」を経験します。行きすぎないと行きすぎたこともわかりません。筆者の知る限り(天体写真・星景写真という狭い分野ですが)、ほぼ全てのフォトグラファーは「MAXレタッチの時代」を経て(15秒で過ぎる人もいます^^)個々のスタイルを確立していきます。インスタグラムのオーディエンスもいずれ変わってゆく(*)ことでしょう。 (*)もしそれが変わらず、それがあるべき姿でないとするならば、その時こそ著名カメラマンや写真メディアはそのことについて堂々と論陣を張るべきです。 良いレタッチとは「上手な嘘」 「男は嘘がうまいネ、女は嘘が好きだネ」と歌ったのは中島みゆき様ですが、この言葉にも「虚構」に対する真理が含まれています。 不都合な真実よりも、都合のよい嘘を見たい。騙すなら墓場まで。みんな大好きベルビア(ときどきフォルティア)。「写真(真を写す)」という不自由な名前をまとった「Photograph」ですが、「写実主義」であれ「アート」であれ、嘘のない写真はこの世にはほとんどありません(*)。 (*)科学的なアプローチなら「嘘」はなくなりますが、さまざまな前提と再現性を明確にすることが前提となります。 上手な嘘と下手な嘘の例。左が元画像です。 右は範囲選択ツールでシャドウを選択しトーンカーブで持ち上げています。選択の境目をごまかすためにマスクをぼかしていますが、「いかにもマスク処理しました」的な不自然な結果になってしまいました。 中は黒つぶれをシャドウと明瞭度で持ち上げたPhotoshopのCamera rawだけの処理。こちらのほうがよっぽど上手な嘘(*)です。さすが「みんな大好きPhotoshop」、嘘がうまいネ! (*)「YOUのデジタルマニアックス」で指摘されていますが、明瞭度をはじめレタッチツールの「賢い系」の機能であったとしても、盛りすぎると「嘘」がバレバレです。 デジタル写真のこの10年ほどの流れの中で起きている一つの大きな変化(*)は「誰でも簡単に上手な嘘がつけるようなった」ことではないでしょうか。その意味では米美知子さんが「レタッチテクニックに走るばっかりで、自然風景がもたらす本来の感動を追いかける人が少ない風潮(超訳)」を嘆かれることには、筆者も大いに共感するものがあります。 (*)連載第3回で触れる予定です。 しかし「楽を覚えてしまった人間は元に戻れない」のは、人類皆同じです。楽を覚えてダメになるような写真家は、楽を覚えなくてもダメです。問題はそこではありません。楽を覚えて何が悪いというのでしょう。 人間の視覚とデジカメの画像はそもそも同じではない 「嘘」を原理主義的に突きつめていくと、人間の視覚そのものにすでに「嘘」があります。網膜には、カメラのイメージセンサーのR,G,B画素に相当する「L錐体」「M錐体」「S錐体」という視覚細胞がありますが、B画素に相当するS錐体は他の細胞の1/10ほどしかありません。生物10億年の進化の歴史の結果、B画素なんてほんの少しで十分ということなのでしょうか。デジタルカメラは「馬鹿正直」なのかもしれませんね。 そればかりか、実はデジカメでは「紫盲」です。人間の眼は波長430nm付近の光を「紫(青+赤)」に感じますが、これは赤を感じるS錐体がこの波長430nm付近にも感度を持っているためです。一方でデジタルカメラのR画素は青い光には全く感度がありません。デジカメでは人間が感じる「波長430nmの紫」を表現できないのです(*)。 (*)参考)http://web.archive.org/web/20100206061515/http://f42.aaa.livedoor.jp/~bands/purple/purple.html さらに、視覚には個人差もあります。あなたがその眼で見ているものははたしてどこまで「真実」なのか。デジカメと人間の眼は同じではなく明らかな差がある。そんな中で「自然であること」「嘘でないこと」を原理主義的に主張することは不可能だといえるでしょう。 良い嘘と悪い嘘 嘘は、内容やその意図によっては、犯罪になったり嫌われたりします。詐欺師の常套句は「騙すつもりはなかった」ですが、写真でもそれは似たようなものです。 悪意のある嘘は、文字通り「悪」なるものです。しかし、嘘を「虚構」と読みかえたとき、それは弱々しい「真実」以上の強い力を持つことがあります。強い力が込められた創作(虚構)は、単純な善悪を越えた存在になり得るはずです。 嘘と真実の間には、イメージセンサーと同じ8bit〜14bitくらいのグラデーションがある。嘘と真実が描く映像そのものが写真である、というのは言い過ぎでしょうか。 「良い嘘」と「悪い嘘」の境目がどこにあるのかについては、個人の尊厳や生き方にもかかわるあまりに普遍的なテーマです。本稿では手に負えないので割愛しますが、本稿の主張の一つは「自然」と「不自然」の境目がどこにあるのかというテーマもまた、それとおなじくらい簡単ではない、ということです。スライダーの位置がどのへんにあるのか、というような単純で牧歌的な問題ではありません。 良い嘘と悪い嘘を決めるもの https://twitter.com/nekozita93/status/1164917013115891712 今回のアサヒカメラの記事の「否定派」の意見の代表のひとつがこのツイートだと思います。「写真くらい自由に撮らせろ」。この言葉は別の言い方をすれば「良い悪いをなんであんたに決められないといけないの?」だと思います。 良い嘘と悪い嘘が仮にあるとして、それは誰が決めるのか。誰に決めることができるのか。これまで誰が決めてきたのか。これから誰が決めるのか。 この構図を極端に単純化すると、「写真のよしあし」をが決めてきた存在が、「著名カメラマン」や「権威ある専門誌」「フォトコン」から、SNSの暴力的なまでの拡散力と「イイネ」数に変わってきている、といえるのではないでしょうか。 筆者はこのどちらについても、良い面と悪い面があり、そしてそれこそが「写真メディア」が今、斬り込むべきテーマの一つであると考えています。 合成写真 https://www.facebook.com/photo.php?fbid=415700911888187 冒頭に触れたように「レタッチしすぎの罠」について触れるなら、合成写真についても触れないとチキンです。こちらの作品は4年前、東京カメラ部の投稿からです。 この頃、筆者は合成写真を忌み嫌っていました(*)。その代表作がこれです。 (*)勢い余ってこんなグループも作りました。現在休眠中です。 https://www.facebook.com/photo.php?fbid=407801959557693 煽り文ではアサヒカメラ様をチキン呼ばわりしてしまいましたが、実は2017年1月号に素晴らしい特集を組まれています(*)。姑息な合成写真ではなく、正々堂々と、合成写真の「表現」で勝負せよ、と。 (*)今回もこのクオリティを期待していたのですが。 現在の筆者の立ち位置は「合成とレタッチに本質的な差はない」「善し悪しは作者と作品が決めるもの」です。自分自身はコラージュ合成はやりませんが、やる人はそれで別に構わないと思います(*)。 (*)3年前ならコラージュ合成をしれっとSNSにアップしても「奇跡の絶景だ!」という絶賛の嵐が巻き起こったでしょうが、今ならあからさまなバレバレの合成はSNSでも高い評価にはならないでしょう。 そもそも、いかに合成を否定しようとも、ある作品が合成であるかどうかを見抜くことは困難になっています。合成写真が奇跡の風景と絶賛されることも、逆に合成でない写真が「合成だ!」と非難されることさえあります。「合成警察」「レタッチ警察」は労多くして実りのない行為です。「マウント主義者」以外にはオススメできません^^;; しかし「合成は禁じ手」と考える立場は、写真に対するいくつかの重要な「主義」の中の一つだと考えています。米美知子さんがインタビューで発言されている内容の多くは「自然主義」ないしは「体験主義」と呼ぶべき立場からだと思います。 この立場には筆者は大いに共感するものですが、だとすれば「レタッチ過剰の風潮を斬る」のではなく、なぜ自分はそんな主義で写真を撮るのかを一般ピープルでもわかる形で語ってほしいと思います(*)。 (*)KAGAYAさんのこのインタビュー記事は筆者のひとつの目標でもあります。 まとめ いかがでしたか? リリース文?に書いたように、この後全五回で連載する予定です。天体写真・星景写真という、ひじょうに狭い分野でしか活動していない筆者には手に余る連載なのですが、サムネイル画像を作ったらもう勢いが止まらなくなってしまいました^^;; もうすこしお付き合いください(*)。 (*)アサヒカメラの次月号が出るまでに連載が終わらなかったら、1年かかると思ってください^^ 次回は、写真界隈の権威として君臨している?「フォトコン」についてです。お楽しみに!編集部山口 千宗kojiro7inukai@gmail.comAdministrator天文リフレクションズ編集長です。天リフOriginal
風景写真やスナップは自分にとってはやはり体験写真です。
私の体験や感動がそこになければ自分には意味はありません。
昨今の風潮に嫌気がさして風景はよほどのものしか撮らなくなりましたが、今回の写真展で主査者から風景写真を要望され、厳選したファンアート紙にA1でTIFFあるいは RAW印刷。意図した通りHDRっぽい写真はモニターで見栄えが良い写真でも映えない出来で、昨今の風潮がタブレットやスマートフォン前提であることを改めて実感しました。
写真を撮る動機が「体験の記録」にあるのなら、画像をこねくり回すのは完全に別の遊びだし、小さなモニタ画面で臨場感が伝わるわけがないですね。プリントの写真展でしか得られない感動があること、強く同意します。
8Kディスプレイが一般化してくれば解像度の点ではA1プリントに近くなります(プリントとは永遠に埋められない差もあるでしょうが、逆にプリントにない長所が出てくることに期待)。
そのあたりの技術が広まってくれば、写真に対する見方も変わってくるのでしょうね。
プリントの意味はモノとしての実感、質感、絵画と同じで同じものはないというリアル感(実際はもちろん複製可能ですが)にあると思います。自分はそれを活かすにはと考察しています。
ただそれ以外では将来はモニターの方が自由度は広いでしょうね。
何故これが炎上商法なのか分かりません。市販の雑誌の内容に関して個人が色々言うのは自由ですが、「アサヒカメラ」の文章は、最初に「コンテストの審査員をしていると」と有りますから、「コンテスト」の「風景写真」に関して言っているのでは、(まあ途中で一般論もゴチャゴチャに成っている時も有りますが、)第一には「アサヒカメラの読者」に向けた記事でしょうし、「アサヒカメラ」のコンテストにおいて「やり過ぎ写真が多い」からの記事だと思います。
天体写真に置いて、どこまでが許容範囲か判断するのは、天文誌なら天文誌。個人のブログならその個人では無いでしょうか? 天文誌としては「これはやり過ぎ」でも個人なら有り、と言うだけです。(当然、天文誌のコンテストでは門前払いもあり得ます)
流星群の写真で一回のシャッターで撮影した物はOKでも、数コマ合成はダメ。「数コマ合成OK」ならば、そのコマ数や時間に制限は?数日分でもOKなの?等など決めるのは、編集者や個人なのでは? 私はアサヒカメラは読者に対して「コンテスト」の「風景写真」に対して書いていると思うので、問題ないと思いますが・・・・。
記事中にあるPRTIMESの文面と記事本文の間の落差です。怒っていると煽る割には、それを掘り下げた記事内容になっていません。「炎上商法」と決めつけたのは、当方側の炎上商法です。
(なお、当方記事のサムネイル画像下段の小さい小さい字の文面が、炎上商法にもの申す形の元記事のパロディになっています)
フォトコンの基準を決めるのは仰るとおり主催者で、それを解釈するのは投稿者です。
記事内容の文意からは「アサヒカメラのコンテスト」に向けたものではなく自然風景写真一般に対するものと当方は理解しました。ちなみに当該号のアサヒカメラのフォトコンには自然風景の作品は一点もありませんでいした。
この件について大半の人が
「私にとっては」を接頭語に語っているように
記録なのか、創作なのか、商業用途なのか、コミュニケーションツールなのか
人それぞれ写真の用途がまちまちな中で
かみ合うはずもない議論をアサヒカメラが提起したところに
ポイントがあったのかなと感じました。
自然主義を突き詰めれば
人の目は周辺部は解像せず彩度も低くなっていますので
高級レンズは全て自然主義に反するとなりますが
そんな議論が何かを生みだす気がしません。
アサヒカメラの記事では
レタッチの度合いによるメリットデメリットを、
情報として分析・提供するのではなく
良い悪いの価値判断を、一方の立場の考えだけ取り上げたところに
炎上のポイントがあったように思います。
こちらの記事の本文中にあるように
「なぜ自分はそんな主義で写真を撮るのかを一般ピープルでもわかる形で語ってほしいと思います」
は本当にそう思います。
>は本当にそう思います
ありがとうございます。既存の「権威」がネット時代でもポジションを維持したいのなら、そういう発信をすべきだし、多くの人がそれを求めていると思います。
アサカメは何がしたいのでしょうね。
部数を上げたいのは理解できますが。
元アサカメ編集長のS氏のツイートでは「脊髄反射的な反応が多い」とありました。一方で議論を求めるとツイートしているアサカメは現時点で全く議論のモデレーションをとる姿勢が見られません。言いっぱなしのワイドショーの爺さんのような印象を受けてしまいますね。
せっかく炎上させたのですから、アサカメ自体のプレゼンスを上げるチャンスだと思うのですが。
担当者様が夏休みなのでしょうか。次の燃料に期待しているのですが。
アサヒカメラの当該記事は、世の中を「ざわつかせること(PV稼ぎ)」に価値を求める一部の広告代理店みたいなスタンスですね(笑)。ネタそのものは決して新しくないと思います。
アサヒカメラは「習い事の月刊誌」としての側面を持っているのでしょう。習い事の本だから、(編集者の意図から大きく外れない各流派の)師範の考え方や、その考え方を体現する具体的な作品や文章を紙面上に公表することも必要でしょう。その習い事の範囲内での成果発表会が「コンテスト」であると考えています。
サイエンスがベースになりがちな天文雑誌の立ち位置とは、大きく異なるような気がします。
リンク先のPRTIMESの「写真の記録性からいっても論外」に釣られ、『まずたしからしさの世界をすてろ(1970年、多木浩二)』の一部を引用します。
『もともと、疑いつつも写真は事態を記録する装置だという信仰は一般化しているのである。(写真の)メカニズムが一種のコピー装置である以上、写真にうつった事態と実際に起こった事態の等価性は、ある程度認められるのであるが、同時にそれはどうにでも細工できるたぐいのものである以上、等価を認めること自体、理論的な根拠はまったくないといってよいのである』。これ、50年前に発表された文章です。
根拠がアヤフヤな主張で議論を仕掛けても、最終的には信仰心、声の大きさ、そして権威での勝負になってしまうのかなあ、とも。
最後に、「写真くらい自由に撮らせろ」派のコンセプトに近い文章を、70年くらい前のアマチュア向けの入門書に書かれていたと思われる、写真家の児島昭雄氏による文章から引っ張ってきました(苦笑)。
『自分が楽しんで相手も楽しむことが出来るようになったら、プロアマ問わずその人は名人とか達人と呼ばれることになる。最後にそこを目指すなら、一番良くないのは自分が悩んで見た人も悩ませてしまうこと。それは目指す場所から一番遠いところだから、アマチュアという立場なら、まずは自分が楽しむことから始めるのが一番いい』→私も同意する文言なのです。
素晴らしい古典?のご紹介、ありがとうございます。「写真はコピー装置」と看破されてはや50年ということですね。「たかがコピー」「まず自分が楽しむ」この2つだけでもずいぶんと肩の力が抜けそうです。
「信仰心(ロイヤリティ)」「声の大きさ(リーチ)」「権威」この3つもメディア論的には重要なキーワードですね。有益なご示唆、重ねてありがとうございます。
画像処理はデジタルの時代になってから始まったわけではなく、銀塩写真の時代から有りましたね。白黒写真では焼き付けの際の「焼き込み」や「覆い焼き」、撮影時のフィルターの使用や印画紙の選択によるコントラストの変化、そしてフィルムの増感現像など。しかし、そのような技術についての否定的な意見は、聞いたことがありませんでした。それは多分、デジタルの画像処理ほど劇的な変化が無かったからではないでしょうか。
最近の風景写真などで、やり過ぎて不自然さを感じるようなものを時折見かけますが、まったく美しいとは思いません。要は程度問題でしょう。
冷静なご意見ありがとうございます。「程度問題」まったくその通りです。
なのになぜざわつくのか。それが一つの問題意識でもあります。
理由の一つに「何で(あんな奴の)ギラギラ写真のほうが俺の写真よりイイネが多いんだ」という思いを多くの人がしているという状況もありますね。これが写真の消費環境の急変による一時的なものなのか、必然的な変化なのか大いに注目しています。
はじめまして。高校で写真部顧問をしています。ちなみに現在、午前八時ですが勤務時間前です、念のため(笑)。さて、この記事を興味深く拝読しました。基本的にはおっしゃる通りかと。ただ、私も生徒の写真を見ていて特に気になるのが彩度の上げすぎだったりしますので、米美智子先生のおっしゃることはよくわかります(ご本人にもお会いしてお話したことがあります)。彼ら/彼女たちは紛れもないデジタル・ネイティブ。「写真はモニターで見るのがデフォルト」なので、どうしてもそういう派手な色合いの画像の方が「きれい」と思ってしまうようですね(まあ、「きれいな写真」=「いい写真」とは限りませんが)。フィルム世代の私としては、いい悪いは別にしてそうした感覚の違いを痛感しています。モニターのように自ら光を発する媒体で見るのと、プリント(紙)のようにその場の光を借りて見るのとでは、当然ながら色や光の感じ方が違ってきますよね。そうした「写真をどんなメディアで見るか」という視点もあれば「過剰レタッチ」に関する論議はより深まるのではないでしょうか。また「写真ぐらい自由に撮らせろ」というご意見については、ちょっと論点がずれてるかと。「レタッチ」は基本的に撮影後の話ですよね。アサカメも、別に「自由に撮るな」なんて言ってないと思いますけどね。ちなみに、ウチの写真部の生徒には「後でレタッチの泥沼にはまるぐらいなら撮るときになんとかしろ!」といつもいっています。まあ、フォトショを買うお金がないだけですが(苦笑)。
教育現場の方ならではの示唆に富んだコメントありがとうございます。「撮る時になんとかしろ!」というのはまさしくそのとおりで、撮れるときにやるべき事をきっちりやるのは「上達」の近道だと思います。
こういう教育的視点の「上達へのヒント」がともすれば「押しつけ」と取られてしまう世の雰囲気もありますね。アサカメ誌の当該記事はその観点では隙だらけです。あえて「ギラギラライトアップ」の作例を選んだのだとすればかなりの計略ですが、それはたぶんないでしょう^^
表示デバイスは他の方からもご指摘をいただきましたが、プリントよりもモニタの方が、彩度・コントラスト増しに強いというのはありますね。
はじめまして。58歳、自営業です。
半年み前のスレッドに書き込むのもどうかと思いましたが、少し言いたいことがあります故、お許しください。
私はPhotoshopがまだフロッピーディスクで提供されていた頃からデジタル写真を楽しんでいます。
銀塩写真も小学校5年からDTPをやってきて、カラーは主にリバーサルで、長い間撮ってました。
さて、そんな私ですが、写真は昔から「単なる記録媒体だけではなく心象記憶・表現媒体である」というスタンスでした。即ち絵画と同じく己が心に描いたものをカメラという筆を使って表現することです。
なのでモノクロを焼くときもソラリゼーションを施してみたり、覆い焼き、多重露光、カリグラフィなどを行ない、自分が心に描いたものを意図して作品を作ったりしてました。
デジタルになって、それまで思っていてもできなかったことが可能になり、水を得た魚のような気持ちになりました。
「この森がAGFA CHROME 50で撮ったような幻惑の発色・彩度にできたらいいな」と思ったら、できてしまうのですから。
レタッチでギラギラさせてもいいじゃないですか。
ソラリゼーションはよくて、フォトショがダメなんて、デジタルに乗り遅れた人の言い訳にしか聞こえません。
ギラギラなのを作って、それが綺麗とか面白いという評価をもらえるのならそれもアリですし、シックなものしか嫌いという人がいてもいいですし、中には故・風間健介(夕張を撮り続けた写真家)のようにアナログのモノクロにこだわって死ぬまで貫く人間がいてもいい。
結論を言えば、この議論は無駄のような気がします。
実は私は作曲家なのですが、打ち込み黎明期には同じような議論がありました。
「コンピュータを使って作った音楽なんて邪道だ」「人の心を感動なんてさせられない」…etc.
今では巷に流れるほぼ全ての楽曲が、コンピュータを介して作られています。
権威のある「写真家の先生さま」が言うことにいちいち反応する必要もなしです。
…なんて、自分も反応してこうして書いているか(笑)
最近の風景写真が美しすぎますね。
富山の剱岳と飛行機と街並みが全てくっきりと映った写真を、富山出身の父に見せたら、壁紙にしたいと言ってきました。心の中の風景は、もっと綺麗みたいですが。
先の写真が加工したものかどうなのか、素人の私にはわかりません。
でも、写真は作品というじゃないですか。
芸術作品なら,絵画と同じ位置付けでいいのかな,と思います。映るんです、で撮った写真と、高機能カメラで撮った写真は、どちらも手を加えてないけど、高機能はレタッチと言えなくもない。この議論は自動のレタッチか、手加減のレタッチかの差。元々かなり綺麗に撮れるカメラで撮った時点で加工写真といえませんかね?
本物を焦がれている人の心に響く写真なら、いい作品なのかな、と思います。