よい写真・ダメな写真
星景写真家の湯淺光則さんが、コンテンツ公開・共有サイト「note」で写真に関するコラムを連載されています。
note・湯淺光則@星景写真家
https://note.mu/noriyuasa
ダメな写真。この3つは完全合意。
1、反社会的、反人間的な写真
2、被写体に対する愛情が感じられない写真
3、あり得ないコラージュ写真で見る人を騙すもの。
ただ具体的にこれが何を指すか、「ダメ」を犯した者にどう接するかは、幅が広い。作者の考える具体例は本文で、そして議論を。 https://t.co/5jQATYPjQ3— 天リフ編集部 (@tenmonReflexion) August 31, 2018
その中で昨日の投稿が「写真は「なんでもあり」ではない」という記事。湯淺さんが考える「ダメな写真」について、3つの基準を指摘されています。
では何がダメか?
以下のような写真は、やはりダメだと思うのです。1、反社会的、反人間的な写真
2、被写体に対する愛情が感じられない写真
3、あり得ないコラージュ写真で見る人を騙すもの。
目次
「よい写真」「ダメな写真」の価値基準
「ダメな写真」というのを自分を律する基準程度に考えていて、「ダメな写真」という名のもとに他人の写真対し行き過ぎた批難するというのが一番悪いと思う。写真版SJW的な感じ
— TYRXZ (@attyyRXZ) August 31, 2018
編集子はツイートで「完全合意(*)」と書きましたが、湯淺さんが元記事で書かれているのと同様「私の意見」にしか過ぎません。
(*)「完全合意」はちょっとおかしかったと後悔してます。いろいろ引っかかりもある中、思い切り言い切ってしまいました。
@attyyRXZさんが書かれている通り、ある個人の「ダメ」の基準が、別の違う価値基準を持つ人の作品を非難するものであってはならないと考えます。
ただ、湯淺さんが誤解されることも承知で「ダメな写真」に対する自分の考え方を文章にされたことは勇気ある行動だと思います。(考え方に全て合意したということではない)
ここで問いかけたいこと、多くの人に考えて欲しいことは、「あなたにとって」「よい写真」「ダメな写真」とは何だろう、そして「わたしの良い(ダメ)と別の人の良い(ダメ)はどう違うのだろう」ということです。
愛情とは個人の思い、個人の尊厳である
この3つの基準ですが、「愛情」という言葉が出てきた時点ですでに「個人の思い」から離れられなくなっています。
1,3は良いとして、2の愛情を感じられないというのは明らかに個人依存だし、明確なライン引きをすることは不可能だと思います。
以前にも述べましたが、ビームで星空を照らすのがダメなら、マウナケア山頂の観測所からビームが出てる写真から愛情を感じる私は「ダメな」感性の持ち主なんでしょうかね? https://t.co/dk5XHESxeo— R.U. (@astr0dab0) August 31, 2018
「何をどう愛するか」は個人の尊厳そのものです。第三者に強制されたり禁止されたりするものではありません。星を見る人の多くは空にビームを照らすことを嫌いますが、「空に照らされたビームを愛する」ことは誰も禁じることはできません。
「空をビームで照らす星を愛する人」を誰が否定できるのか
「反社会的」というのは、少なくとも現代日本社会において通念上非難されるべき行為(の内容である写真)か否かということだと解釈したので、あまり異論はないですね…
ただ、星の好きな人=ビームで星空を照らすことはないというのは安易すぎる線引きだと考えます。— R.U. (@astr0dab0) August 31, 2018
編集子は「夜空をライト(ビーム)で照らした写真」は否定しません。自分しかいない暗黒の夜、手にした懐中電灯。降るような星にライトを向けてみる。何も照らすことができずぼんやりと空が明るくなるだけ。それは宇宙の存在と自分の無力さを知る瞬間です。そんな体験を私は愛するし、そんな表現はリスペクトします。
もちろん、多くの星景写真愛好家が集まったフィールドではそんなことはしません。星空をビームで照らされてほしくない、星空を愛する人にとっては迷惑ですから。
湯淺さん、私は星が好きですが星をビームで照らすことはありますよ。いつかそういう写真も撮ってみたい。そのことは、ぜひ心に留めてもらえると嬉しいです。
ただ、この問題は「星空をビームで照らせば手っ取り早くいいねがもらえる」という問題と絡んで、いろいろとややこしい状況を作っています。さらにマナー問題が絡んできますし・・・
「異なる価値基準」同士のぶつかりあい
結局、「星空ビーム問題」は「愛情」「リスペクト」といった個人的な感情をどう表現し伝えるか、という極めて根源的なテーマに行き着きます。誰もが納得する基準など存在しない。ただ、それをどこまで表現できるか<言葉であれ、写真作品であれ>、他者に伝えることができるかです。
湯淺さんの投稿は、それを議論してみませんか、という投げかけだと受け止めました。いろいろな考えを私も聞いてみたいとは思っています。
それともう一つ。写真表現には「愛情やリスペクトから遠く離れた世界」も、またあるものだと思います。それについては今回は触れませんが。
騙す者と騙される者
「あり得ないコラージュ写真で見る人を騙すもの」湯淺さんが一番問いかけたかったことはこれなのでしょうか。
例えば、ある写真コミュニティは、「あり得ないコラージュを生み出す作家」とそれを「マジックだ、または現実だと信じて喜ぶ視聴者」の関係性を養分に成長しました(もちろんそれだけではありませんが)。
編集子はかつてはそれを全否定し、苦々しく思っていましたが、今は考えが変わりました。「完璧な嘘」も「完全な美」もどちらも存在しませんが、生涯をかけて追い続ける価値があるものと考えています。「見え透いた嘘」「中途半端な美」はワタシ的には「ダメ」なものです。でもいちいち指摘することはしません。キリがないからです。
騙したり騙されたり。それこそが「成長期の世界のありよう」ではないでしょうか。
「反○○的」を決めるもの
昨今の「反社会的」「反人間的」なものに対する圧力は凄まじいものがあります。現代社会では「反○○」認定されるとほぼ抹殺されます。「反○○」を決めるのは「世間」「世論」。そして、時代と共に変わっていきます。時には突然、正反対に。
シュプレヒコールの波は遠ざかるのを待つしかありません。時代の熱病に翻弄されないように賢く時にはずるく生きるしかない(*)。
(*)そして頑固者は悲しい思いをします^^
本来、表現や芸術はそういった圧力に取り込まれるようなものではないと編集子は考えていますが、そうもいかないのがマナー問題です。「どうしようもなく残念な人たち」や「増えすぎた撮影者」から何かを守るためには「反○○」の基準とレッテルを持ってそれを運用しなければなりません。
これは、極めて現実的な処方箋として議論しなければならないでしょう。
はたして「議論」は盛り上がるか
個人的には、議論は別に盛り上がらなくてもいいし、多くの人に意見表明を求めるつもりもありませんが、湯淺さんのような影響力を持つ方が意見表明されたこともあり、少し思うことを書きました。
言いたいことがあるけど黙っていらっしゃる方は、たぶん黙ったまま自分の考える「写真」を追い続けそれを発信する方がきっと幸せなはずです。どうしても黙っていられないときはつぶやきましょう^^ そのためのツイッターです^^
追記9/1)
写真を公開する場は多いのですが、
議論できる場がありませんでしたので
Facebookにて「星景写真討論会」というグループを作成しました。
マナーやルールなど、さまざまなテーマで
星景写真について考え、意見交換する場として作成しました。
本気で議論したい方だけどうぞ。— 星景写真家 湯淺光則 (@m_roadster) September 1, 2018
湯淺さんがFacebook上にこれらの話題に関して討論をする場を設置されました。編集子も参加させていただいています。
https://reflexions.jp/tenref/orig/2018/09/01/6234/https://reflexions.jp/tenref/orig/wp-content/uploads/sites/4/2018/09/rectangle_large_type_2_b2839d43ac803a505643bcfe1da2712f.jpg-1024x536.pnghttps://reflexions.jp/tenref/orig/wp-content/uploads/sites/4/2018/09/rectangle_large_type_2_b2839d43ac803a505643bcfe1da2712f.jpg-150x150.png写真コラム星景写真家の湯淺光則さんが、コンテンツ公開・共有サイト「note」で写真に関するコラムを連載されています。 note・湯淺光則@星景写真家 https://note.mu/noriyuasa https://twitter.com/tenmonReflexion/status/1035478932491919360 その中で昨日の投稿が「写真は「なんでもあり」ではない」という記事。湯淺さんが考える「ダメな写真」について、3つの基準を指摘されています。 では何がダメか? 以下のような写真は、やはりダメだと思うのです。 1、反社会的、反人間的な写真 2、被写体に対する愛情が感じられない写真 3、あり得ないコラージュ写真で見る人を騙すもの。 「よい写真」「ダメな写真」の価値基準 https://twitter.com/attyyRXZ/status/1035537185942818817 編集子はツイートで「完全合意(*)」と書きましたが、湯淺さんが元記事で書かれているのと同様「私の意見」にしか過ぎません。 (*)「完全合意」はちょっとおかしかったと後悔してます。いろいろ引っかかりもある中、思い切り言い切ってしまいました。 @attyyRXZさんが書かれている通り、ある個人の「ダメ」の基準が、別の違う価値基準を持つ人の作品を非難するものであってはならないと考えます。 ただ、湯淺さんが誤解されることも承知で「ダメな写真」に対する自分の考え方を文章にされたことは勇気ある行動だと思います。(考え方に全て合意したということではない) ここで問いかけたいこと、多くの人に考えて欲しいことは、「あなたにとって」「よい写真」「ダメな写真」とは何だろう、そして「わたしの良い(ダメ)と別の人の良い(ダメ)はどう違うのだろう」ということです。 愛情とは個人の思い、個人の尊厳である この3つの基準ですが、「愛情」という言葉が出てきた時点ですでに「個人の思い」から離れられなくなっています。 https://twitter.com/astr0dab0/status/1035483197167947776 「何をどう愛するか」は個人の尊厳そのものです。第三者に強制されたり禁止されたりするものではありません。星を見る人の多くは空にビームを照らすことを嫌いますが、「空に照らされたビームを愛する」ことは誰も禁じることはできません。 「空をビームで照らす星を愛する人」を誰が否定できるのか https://twitter.com/astr0dab0/status/1035489546115239937 編集子は「夜空をライト(ビーム)で照らした写真」は否定しません。自分しかいない暗黒の夜、手にした懐中電灯。降るような星にライトを向けてみる。何も照らすことができずぼんやりと空が明るくなるだけ。それは宇宙の存在と自分の無力さを知る瞬間です。そんな体験を私は愛するし、そんな表現はリスペクトします。 もちろん、多くの星景写真愛好家が集まったフィールドではそんなことはしません。星空をビームで照らされてほしくない、星空を愛する人にとっては迷惑ですから。 湯淺さん、私は星が好きですが星をビームで照らすことはありますよ。いつかそういう写真も撮ってみたい。そのことは、ぜひ心に留めてもらえると嬉しいです。 ただ、この問題は「星空をビームで照らせば手っ取り早くいいねがもらえる」という問題と絡んで、いろいろとややこしい状況を作っています。さらにマナー問題が絡んできますし・・・ 「異なる価値基準」同士のぶつかりあい 結局、「星空ビーム問題」は「愛情」「リスペクト」といった個人的な感情をどう表現し伝えるか、という極めて根源的なテーマに行き着きます。誰もが納得する基準など存在しない。ただ、それをどこまで表現できるか<言葉であれ、写真作品であれ>、他者に伝えることができるかです。 湯淺さんの投稿は、それを議論してみませんか、という投げかけだと受け止めました。いろいろな考えを私も聞いてみたいとは思っています。 それともう一つ。写真表現には「愛情やリスペクトから遠く離れた世界」も、またあるものだと思います。それについては今回は触れませんが。 騙す者と騙される者 「あり得ないコラージュ写真で見る人を騙すもの」湯淺さんが一番問いかけたかったことはこれなのでしょうか。 例えば、ある写真コミュニティは、「あり得ないコラージュを生み出す作家」とそれを「マジックだ、または現実だと信じて喜ぶ視聴者」の関係性を養分に成長しました(もちろんそれだけではありませんが)。 編集子はかつてはそれを全否定し、苦々しく思っていましたが、今は考えが変わりました。「完璧な嘘」も「完全な美」もどちらも存在しませんが、生涯をかけて追い続ける価値があるものと考えています。「見え透いた嘘」「中途半端な美」はワタシ的には「ダメ」なものです。でもいちいち指摘することはしません。キリがないからです。 騙したり騙されたり。それこそが「成長期の世界のありよう」ではないでしょうか。 「反○○的」を決めるもの 昨今の「反社会的」「反人間的」なものに対する圧力は凄まじいものがあります。現代社会では「反○○」認定されるとほぼ抹殺されます。「反○○」を決めるのは「世間」「世論」。そして、時代と共に変わっていきます。時には突然、正反対に。 シュプレヒコールの波は遠ざかるのを待つしかありません。時代の熱病に翻弄されないように賢く時にはずるく生きるしかない(*)。 (*)そして頑固者は悲しい思いをします^^ 本来、表現や芸術はそういった圧力に取り込まれるようなものではないと編集子は考えていますが、そうもいかないのがマナー問題です。「どうしようもなく残念な人たち」や「増えすぎた撮影者」から何かを守るためには「反○○」の基準とレッテルを持ってそれを運用しなければなりません。 これは、極めて現実的な処方箋として議論しなければならないでしょう。 はたして「議論」は盛り上がるか 個人的には、議論は別に盛り上がらなくてもいいし、多くの人に意見表明を求めるつもりもありませんが、湯淺さんのような影響力を持つ方が意見表明されたこともあり、少し思うことを書きました。 言いたいことがあるけど黙っていらっしゃる方は、たぶん黙ったまま自分の考える「写真」を追い続けそれを発信する方がきっと幸せなはずです。どうしても黙っていられないときはつぶやきましょう^^ そのためのツイッターです^^ 追記9/1) https://twitter.com/m_roadster/status/1035758160936484865 湯淺さんがFacebook上にこれらの話題に関して討論をする場を設置されました。編集子も参加させていただいています。 編集部山口 千宗kojiro7inukai@gmail.comAdministrator天文リフレクションズ編集長です。天リフOriginal
素晴らしいまとめ、ありがとうございます(^ ^)
概ね、まさに編集子さんが書かれているとおりだと思います。
ただ、若干気になったのは2.の愛情の感じられない写真、ですが
私の書き方が悪いのかと思いますが、「愛情」は個人の好みの話ではなくて、動植物を中心とした、自然に対する愛情であり、大切に保護しなければならない、と思っています。蛍のお話で理解いただけるかと思ったのですが、、
星空ビーム問題は、少し話が違ってて、元々論議を呼ぶと思ってましたので、別途論じたいと思います(^ ^)
詳しい記事、ありがとうございました(^ ^)
湯淺様
自然に対する深い愛情を持たれていること、理解が足りませんでした。
愛情というもの、なかなか持つ方の思いが対象に伝わらないことが多く、実生活でも難しいものです^^;;;
自然は脆く弱いという側面がある一方で、総体としては人間の想像を遙かに超えた強くしぶといものであるとの思いもあります。
今フィールドで問題になっているのは主に前者で、それについては全く異論ありません。
ビーム問題は・・社会的な事象も含めてさらにややこしそうですね。
宇宙のスケールで見れば微々たる灯りなのに、宇宙のスケールを愛する人がそれを嫌う。
文明の灯りに安住の地を奪われ辺境に追いやられた星空民。3000年後には聖書になっていそう^^