https://note.mu/noriyuasa/n/neb58f2f698ab

星景写真家の湯淺光則さんが、コンテンツ公開・共有サイト「note」で写真に関するコラムを連載されています。

note・湯淺光則@星景写真家
https://note.mu/noriyuasa



その中で昨日の投稿が「写真は「なんでもあり」ではない」という記事。湯淺さんが考える「ダメな写真」について、3つの基準を指摘されています。

では何がダメか?
以下のような写真は、やはりダメだと思うのです。

1、反社会的、反人間的な写真
2、被写体に対する愛情が感じられない写真
3、あり得ないコラージュ写真で見る人を騙すもの。

「よい写真」「ダメな写真」の価値基準

編集子はツイートで「完全合意(*)」と書きましたが、湯淺さんが元記事で書かれているのと同様「私の意見」にしか過ぎません。

(*)「完全合意」はちょっとおかしかったと後悔してます。いろいろ引っかかりもある中、思い切り言い切ってしまいました。

@attyyRXZさんが書かれている通り、ある個人の「ダメ」の基準が、別の違う価値基準を持つ人の作品を非難するものであってはならないと考えます。

ただ、湯淺さんが誤解されることも承知で「ダメな写真」に対する自分の考え方を文章にされたことは勇気ある行動だと思います。(考え方に全て合意したということではない)

ここで問いかけたいこと、多くの人に考えて欲しいことは、「あなたにとって」「よい写真」「ダメな写真」とは何だろう、そして「わたしの良い(ダメ)と別の人の良い(ダメ)はどう違うのだろう」ということです。

愛情とは個人の思い、個人の尊厳である

この3つの基準ですが、「愛情」という言葉が出てきた時点ですでに「個人の思い」から離れられなくなっています。

「何をどう愛するか」は個人の尊厳そのものです。第三者に強制されたり禁止されたりするものではありません。星を見る人の多くは空にビームを照らすことを嫌いますが、「空に照らされたビームを愛する」ことは誰も禁じることはできません。

「空をビームで照らす星を愛する人」を誰が否定できるのか

編集子は「夜空をライト(ビーム)で照らした写真」は否定しません。自分しかいない暗黒の夜、手にした懐中電灯。降るような星にライトを向けてみる。何も照らすことができずぼんやりと空が明るくなるだけ。それは宇宙の存在と自分の無力さを知る瞬間です。そんな体験を私は愛するし、そんな表現はリスペクトします。



もちろん、多くの星景写真愛好家が集まったフィールドではそんなことはしません。星空をビームで照らされてほしくない、星空を愛する人にとっては迷惑ですから。

湯淺さん、私は星が好きですが星をビームで照らすことはありますよ。いつかそういう写真も撮ってみたい。そのことは、ぜひ心に留めてもらえると嬉しいです。

ただ、この問題は「星空をビームで照らせば手っ取り早くいいねがもらえる」という問題と絡んで、いろいろとややこしい状況を作っています。さらにマナー問題が絡んできますし・・・

「異なる価値基準」同士のぶつかりあい

結局、「星空ビーム問題」は「愛情」「リスペクト」といった個人的な感情をどう表現し伝えるか、という極めて根源的なテーマに行き着きます。誰もが納得する基準など存在しない。ただ、それをどこまで表現できるか<言葉であれ、写真作品であれ>、他者に伝えることができるかです。

湯淺さんの投稿は、それを議論してみませんか、という投げかけだと受け止めました。いろいろな考えを私も聞いてみたいとは思っています。

それともう一つ。写真表現には「愛情やリスペクトから遠く離れた世界」も、またあるものだと思います。それについては今回は触れませんが。

騙す者と騙される者

あり得ないコラージュ写真で見る人を騙すもの」湯淺さんが一番問いかけたかったことはこれなのでしょうか。

例えば、ある写真コミュニティは、「あり得ないコラージュを生み出す作家」とそれを「マジックだ、または現実だと信じて喜ぶ視聴者」の関係性を養分に成長しました(もちろんそれだけではありませんが)。

編集子はかつてはそれを全否定し、苦々しく思っていましたが、今は考えが変わりました。「完璧な嘘」も「完全な美」もどちらも存在しませんが、生涯をかけて追い続ける価値があるものと考えています。「見え透いた嘘」「中途半端な美」はワタシ的には「ダメ」なものです。でもいちいち指摘することはしません。キリがないからです。

騙したり騙されたり。それこそが「成長期の世界のありよう」ではないでしょうか。

「反○○的」を決めるもの

昨今の「反社会的」「反人間的」なものに対する圧力は凄まじいものがあります。現代社会では「反○○」認定されるとほぼ抹殺されます。「反○○」を決めるのは「世間」「世論」。そして、時代と共に変わっていきます。時には突然、正反対に。

シュプレヒコールの波は遠ざかるのを待つしかありません。時代の熱病に翻弄されないように賢く時にはずるく生きるしかない(*)。

(*)そして頑固者は悲しい思いをします^^

本来、表現や芸術はそういった圧力に取り込まれるようなものではないと編集子は考えていますが、そうもいかないのがマナー問題です。「どうしようもなく残念な人たち」や「増えすぎた撮影者」から何かを守るためには「反○○」の基準とレッテルを持ってそれを運用しなければなりません。

これは、極めて現実的な処方箋として議論しなければならないでしょう。

はたして「議論」は盛り上がるか

個人的には、議論は別に盛り上がらなくてもいいし、多くの人に意見表明を求めるつもりもありませんが、湯淺さんのような影響力を持つ方が意見表明されたこともあり、少し思うことを書きました。

言いたいことがあるけど黙っていらっしゃる方は、たぶん黙ったまま自分の考える「写真」を追い続けそれを発信する方がきっと幸せなはずです。どうしても黙っていられないときはつぶやきましょう^^ そのためのツイッターです^^

追記9/1)

湯淺さんがFacebook上にこれらの話題に関して討論をする場を設置されました。編集子も参加させていただいています。

  https://reflexions.jp/tenref/orig/wp-content/uploads/sites/4/2018/09/rectangle_large_type_2_b2839d43ac803a505643bcfe1da2712f.jpg-1024x536.pnghttps://reflexions.jp/tenref/orig/wp-content/uploads/sites/4/2018/09/rectangle_large_type_2_b2839d43ac803a505643bcfe1da2712f.jpg-150x150.png編集部写真コラム星景写真家の湯淺光則さんが、コンテンツ公開・共有サイト「note」で写真に関するコラムを連載されています。 note・湯淺光則@星景写真家 https://note.mu/noriyuasa https://twitter.com/tenmonReflexion/status/1035478932491919360 その中で昨日の投稿が「写真は「なんでもあり」ではない」という記事。湯淺さんが考える「ダメな写真」について、3つの基準を指摘されています。 では何がダメか? 以下のような写真は、やはりダメだと思うのです。 1、反社会的、反人間的な写真 2、被写体に対する愛情が感じられない写真 3、あり得ないコラージュ写真で見る人を騙すもの。 「よい写真」「ダメな写真」の価値基準 https://twitter.com/attyyRXZ/status/1035537185942818817 編集子はツイートで「完全合意(*)」と書きましたが、湯淺さんが元記事で書かれているのと同様「私の意見」にしか過ぎません。 (*)「完全合意」はちょっとおかしかったと後悔してます。いろいろ引っかかりもある中、思い切り言い切ってしまいました。 @attyyRXZさんが書かれている通り、ある個人の「ダメ」の基準が、別の違う価値基準を持つ人の作品を非難するものであってはならないと考えます。 ただ、湯淺さんが誤解されることも承知で「ダメな写真」に対する自分の考え方を文章にされたことは勇気ある行動だと思います。(考え方に全て合意したということではない) ここで問いかけたいこと、多くの人に考えて欲しいことは、「あなたにとって」「よい写真」「ダメな写真」とは何だろう、そして「わたしの良い(ダメ)と別の人の良い(ダメ)はどう違うのだろう」ということです。 愛情とは個人の思い、個人の尊厳である この3つの基準ですが、「愛情」という言葉が出てきた時点ですでに「個人の思い」から離れられなくなっています。 https://twitter.com/astr0dab0/status/1035483197167947776 「何をどう愛するか」は個人の尊厳そのものです。第三者に強制されたり禁止されたりするものではありません。星を見る人の多くは空にビームを照らすことを嫌いますが、「空に照らされたビームを愛する」ことは誰も禁じることはできません。 「空をビームで照らす星を愛する人」を誰が否定できるのか https://twitter.com/astr0dab0/status/1035489546115239937 編集子は「夜空をライト(ビーム)で照らした写真」は否定しません。自分しかいない暗黒の夜、手にした懐中電灯。降るような星にライトを向けてみる。何も照らすことができずぼんやりと空が明るくなるだけ。それは宇宙の存在と自分の無力さを知る瞬間です。そんな体験を私は愛するし、そんな表現はリスペクトします。 もちろん、多くの星景写真愛好家が集まったフィールドではそんなことはしません。星空をビームで照らされてほしくない、星空を愛する人にとっては迷惑ですから。 湯淺さん、私は星が好きですが星をビームで照らすことはありますよ。いつかそういう写真も撮ってみたい。そのことは、ぜひ心に留めてもらえると嬉しいです。 ただ、この問題は「星空をビームで照らせば手っ取り早くいいねがもらえる」という問題と絡んで、いろいろとややこしい状況を作っています。さらにマナー問題が絡んできますし・・・ 「異なる価値基準」同士のぶつかりあい 結局、「星空ビーム問題」は「愛情」「リスペクト」といった個人的な感情をどう表現し伝えるか、という極めて根源的なテーマに行き着きます。誰もが納得する基準など存在しない。ただ、それをどこまで表現できるか<言葉であれ、写真作品であれ>、他者に伝えることができるかです。 湯淺さんの投稿は、それを議論してみませんか、という投げかけだと受け止めました。いろいろな考えを私も聞いてみたいとは思っています。 それともう一つ。写真表現には「愛情やリスペクトから遠く離れた世界」も、またあるものだと思います。それについては今回は触れませんが。 騙す者と騙される者 「あり得ないコラージュ写真で見る人を騙すもの」湯淺さんが一番問いかけたかったことはこれなのでしょうか。 例えば、ある写真コミュニティは、「あり得ないコラージュを生み出す作家」とそれを「マジックだ、または現実だと信じて喜ぶ視聴者」の関係性を養分に成長しました(もちろんそれだけではありませんが)。 編集子はかつてはそれを全否定し、苦々しく思っていましたが、今は考えが変わりました。「完璧な嘘」も「完全な美」もどちらも存在しませんが、生涯をかけて追い続ける価値があるものと考えています。「見え透いた嘘」「中途半端な美」はワタシ的には「ダメ」なものです。でもいちいち指摘することはしません。キリがないからです。 騙したり騙されたり。それこそが「成長期の世界のありよう」ではないでしょうか。 「反○○的」を決めるもの 昨今の「反社会的」「反人間的」なものに対する圧力は凄まじいものがあります。現代社会では「反○○」認定されるとほぼ抹殺されます。「反○○」を決めるのは「世間」「世論」。そして、時代と共に変わっていきます。時には突然、正反対に。 シュプレヒコールの波は遠ざかるのを待つしかありません。時代の熱病に翻弄されないように賢く時にはずるく生きるしかない(*)。 (*)そして頑固者は悲しい思いをします^^ 本来、表現や芸術はそういった圧力に取り込まれるようなものではないと編集子は考えていますが、そうもいかないのがマナー問題です。「どうしようもなく残念な人たち」や「増えすぎた撮影者」から何かを守るためには「反○○」の基準とレッテルを持ってそれを運用しなければなりません。 これは、極めて現実的な処方箋として議論しなければならないでしょう。 はたして「議論」は盛り上がるか 個人的には、議論は別に盛り上がらなくてもいいし、多くの人に意見表明を求めるつもりもありませんが、湯淺さんのような影響力を持つ方が意見表明されたこともあり、少し思うことを書きました。 言いたいことがあるけど黙っていらっしゃる方は、たぶん黙ったまま自分の考える「写真」を追い続けそれを発信する方がきっと幸せなはずです。どうしても黙っていられないときはつぶやきましょう^^ そのためのツイッターです^^ 追記9/1) https://twitter.com/m_roadster/status/1035758160936484865 湯淺さんがFacebook上にこれらの話題に関して討論をする場を設置されました。編集子も参加させていただいています。  編集部発信のオリジナルコンテンツ