インスタ「萎え」、桜の文化、そして写真という文化
昨日の以下のツイートが天リフ的には過去最高の反応数を記録しています。
インスタ「萎え」。この記事に対してSNSでつぶやかれた言葉。技術的にはよくできたマスク処理の実戦的解説。やる人はみんなやってる。でも繊細で多様な桜の文化を持つ日本人がソメイヨシノをこんな色にしていいのか。「映え」至上と「いいね」至上に対する猛省の時期。https://t.co/Uo3PAXDl6D
— 天リフ編集部 (@tenmonReflexion) March 28, 2018
この件について、長いですが補足させていただきます。
目次
ツイートの背景
このツイートのきっかけは、アドビ様の元記事を引用したあるFacebook友達の方の投稿でした。その方は、「ナチュラル指向」の素晴らしい写真を撮られる、編集子も大いにリスペクトしている方です。投稿の趣旨は「淡い淡い桜の色をこんなにしてしまって、どうなのよこの風潮」というものでした。
その投稿に、これじゃインスタ映えじゃなくてインスタ「萎え」だよね、という意味のコメントがあり、それがスイッチになりました。個人的に各種桜に対して並々ならぬ「偏愛」をもっていたこともあり、このようなツイートとなりました。
桜の色を桜らしく見せるって、どういうことなの?
元記事の作者様に対して
あらかじめお断りしておきますが、元記事の作者様に対しては、何ら含むところはありません。非常にわかりやすく書かれたマスク処理の解説で、技術的には大いに参考になります。
必読級です。
桜は人々の記憶の中ではピンク色をしていると思うのですが、実際は思ったより白っぽいことが多い被写体です。
記事冒頭で「記憶色」と「実際の色」の違いについてもはっきり触れられていますし、
「花は淡いピンクにしたい。でも空は青っぽく濃い色に」という逆方向の調整になる上に、
花を濃いピンクにすべき、とも書かれていません。まあ色はきつめですけど。でもこれは読者の要求とレベルに合わせたものといえるでしょう。サルでもわかるように、若干オーバーな作例にされたのだと推測します。
ただ、タイトル(*)に揮発成分が含まれていました。
フォトレタッチの極意20:桜の花を桜らしく見せる色調整
「桜の花を桜らしく見せる」って?
(大事なことなので2度書きました)
(*)このタイトルはたぶん記事の作者様ご自身がつけられたものではないでしょう。メディアの情報の「タイトル」を決定するのは、古来から?一般には記事を書く人ではなく、営業的な部数増(アクセス増)第一の観点に立つ、作者とは別の人です。
なぜ桜を桜らしく見せる必要があるのか
この答は簡単。その方がイイネが多くなります(*)。インスタ映えします。
(*)別の知人(Facebookで某カメラ部よりも活発な写真共有サイトを運営されています)が断言されていました。
イイネがもっと欲しいばかりに、空はどんどん青く、桜はどんどんピンクになる。世の中の人の多くは、イイネが沢山つくインスタ映えする写真を求めている(*)。
これが現実であり、事実なのです。
(*)「デジタルは・・」という意見も散見しますが、フィルムの時代から写真愛好家は「派手好き」でした。より派手な発色に向かってフィルムも変化していたのです。ちなみに上の作例は「派手すぎない普通」のフィルムです。後処理で彩度を盛っています^^;
なぜ元記事が書かれたのか
これも簡単。多くの人がそれを求めている(とアドビが判断した)からです(*)。
(*)これについては「いいねの数」だけで写真の価値を判断してしまっている問題があります。「視聴率」がテレビを駄目にしたようなことが繰り返されるのかもしれません。元ツイートの「猛省」は主にこのことを指していたつもりです。
さらに言えば、ネットでは個人が皆発信者になります。「テレビ」を「写真を撮る人、ひとりひとり」に置き換えてもいいのかもしれません。
もちろんフォトショップを売るのがアドビ的には最終目的ですが、ユーザーのニーズに最も敏感なのはサービスやプロダクトを提供する側。求められるものには忠実に応える。これが資本主義の世界で生き残るための王道なのです。
なので、この記事を世に出したアドビ社は責められるものではありません。「お客様にとって(自分たちにとっても)よかれと思ってやらせていただいたんですけど」というのが本音でしょう。
でも、それが納得いかないんで、編集子はこんなことを書いてるわけですけど。
何が納得いかないのか・桜へのリスペクト
さて。自分は何に納得がいっていないのか。乱暴に一言で言い放つとこうなります。
何かを(安易に)手に入れることで、何かが失われている。
では、桜を派手にする技術を手に入れ、ソメイヨシノを濃いピンクにすることで、失われるものは何なのか。
今回の件では、それは「桜」という大いなる多様性を持つ樹木、その中でもソメイヨシノという圧倒的な人気を誇る品種、そしてそれらの木が都市部・郊外、あらゆる場所に植樹されてきた過去の歴史へのリスペクトではないかと思うのです。
桜は多種多様な品種があり、開花時期・花の色、形・花の付き方など様々。それらの違いを無視して濃いピンクに「レタッチ」するのはどうなのか。
Wikipedia ソメイヨシノ
https://ja.wikipedia.org/wiki/ソメイヨシノ
その中でも、ソメイヨシノ。この葉が出る前に開花し、限りなく淡く繊細な、日本の都市部に多数植樹され、多くの人に愛されている品種は、この時代のまさに今が植物種としてもピークかもしれません(*)
(*)ソメイヨシノは比較的新しい(江戸時代以降)の交雑種で、いくつかの理由で明治以降各地に多く植樹され、日本の桜の代名詞になりました。ただし、この先も今のままである保証はまったくありません。現在育っている株が寿命を迎えた後、何がその後に植樹されるかしだいです。
満開のソメイヨシノ、ソメイヨシノの花吹雪の中で感じるものを「日本人の心」であると表現することは、それが近代数百年の歴史であったとしても、それなりに多くの共感を得ることができるでしょう。
濃いピンクの「映える」「桜らしい桜」ばかりを人々が望むようになってしまえば、数百年後の日本はそういった桜ばかりになってしまうのでしょうか?
文化と独りよがりの間にあるもの
「日本人の心」という「文化」は、特定の個人だけの思い込みや特定の小さなコミュニティでだけに閉じたものではなく、比較的広く受け入れられるものでしょう(それが何なのかというとまた別の話になるので省略します)。
でも、それはもっと広い視野で見ると、単なる日本という島国の中でだけ通用する価値観なのかもしれません。
文化とは「一人よがり」「ムラ社会」「ガラパゴス」とも背中合わせ。将来インスタ映えに別の名前が付いて美術の教科書に書かれないとも限らない。。マーケティングの教科書には既に書かれているだろうが。https://t.co/D6oVKkQ2a8
— 天リフ編集部 (@tenmonReflexion) March 28, 2018
また、時間軸もあります。ある文化が生まれ、育ち、広く受け入れられ、教科書に載るようになり、あるものは寿命を終え滅びてゆく。桜を愛する文化も、ナチュラルを指向する写真も、合成を是とするファインアートも、カジュアルなインスタ映えも、寿命があるのかもしれません(ないのかもしれません)。
桜を見て感じたことを表現しよう
弊サイトでは、基本的に「表現に禁じ手はない」「異なる考え方に対する寛容の姿勢を持とう」と繰り返し発信しています。その考えは変わりません。
今回のツイートは若干それとは違ったように受け止められたかもしれません。ただ、一番言いたいことはこれです。
あなたは何を見た?
何を感じた?
どう写真で表現したい?
何を伝えたい?
それを思うままに表現しよう。
そのために必要な技術を身につけよう。
桜を濃いピンクにしてたくさんのイイネをもらいたいという行動は決して否定しません(それは人間の根源にある承認願望です)。
でも、せっかく美しい風景が眼前にあり、それを写し撮ることができる素晴らしいカメラが手元にあるのなら、承認願望の奴隷にならずしても、美しいもの・面白いこと・楽しいことがもっともっと見つかるはずなのです。
本当に優れた芸術はほんの選ばれた天才しか生み出すことができませんが、豊かな文化は数多くの「普通の人」の中で育まれるものだと信じています。
https://reflexions.jp/tenref/orig/2018/03/30/4420/https://reflexions.jp/tenref/orig/wp-content/uploads/sites/4/2018/03/10000486682-1.jpghttps://reflexions.jp/tenref/orig/wp-content/uploads/sites/4/2018/03/10000486682-1-150x150.jpg写真コラム昨日の以下のツイートが天リフ的には過去最高の反応数を記録しています。 https://twitter.com/tenmonReflexion/status/979079323968684032 この件について、長いですが補足させていただきます。 ツイートの背景 このツイートのきっかけは、アドビ様の元記事を引用したあるFacebook友達の方の投稿でした。その方は、「ナチュラル指向」の素晴らしい写真を撮られる、編集子も大いにリスペクトしている方です。投稿の趣旨は「淡い淡い桜の色をこんなにしてしまって、どうなのよこの風潮」というものでした。 その投稿に、これじゃインスタ映えじゃなくてインスタ「萎え」だよね、という意味のコメントがあり、それがスイッチになりました。個人的に各種桜に対して並々ならぬ「偏愛」をもっていたこともあり、このようなツイートとなりました。 桜の色を桜らしく見せるって、どういうことなの? 元記事の作者様に対して あらかじめお断りしておきますが、元記事の作者様に対しては、何ら含むところはありません。非常にわかりやすく書かれたマスク処理の解説で、技術的には大いに参考になります。 必読級です。 桜は人々の記憶の中ではピンク色をしていると思うのですが、実際は思ったより白っぽいことが多い被写体です。 記事冒頭で「記憶色」と「実際の色」の違いについてもはっきり触れられていますし、 「花は淡いピンクにしたい。でも空は青っぽく濃い色に」という逆方向の調整になる上に、 花を濃いピンクにすべき、とも書かれていません。まあ色はきつめですけど。でもこれは読者の要求とレベルに合わせたものといえるでしょう。サルでもわかるように、若干オーバーな作例にされたのだと推測します。 ただ、タイトル(*)に揮発成分が含まれていました。 フォトレタッチの極意20:桜の花を桜らしく見せる色調整 「桜の花を桜らしく見せる」って? (大事なことなので2度書きました) (*)このタイトルはたぶん記事の作者様ご自身がつけられたものではないでしょう。メディアの情報の「タイトル」を決定するのは、古来から?一般には記事を書く人ではなく、営業的な部数増(アクセス増)第一の観点に立つ、作者とは別の人です。 なぜ桜を桜らしく見せる必要があるのか この答は簡単。その方がイイネが多くなります(*)。インスタ映えします。 (*)別の知人(Facebookで某カメラ部よりも活発な写真共有サイトを運営されています)が断言されていました。 イイネがもっと欲しいばかりに、空はどんどん青く、桜はどんどんピンクになる。世の中の人の多くは、イイネが沢山つくインスタ映えする写真を求めている(*)。 これが現実であり、事実なのです。 (*)「デジタルは・・」という意見も散見しますが、フィルムの時代から写真愛好家は「派手好き」でした。より派手な発色に向かってフィルムも変化していたのです。ちなみに上の作例は「派手すぎない普通」のフィルムです。後処理で彩度を盛っています^^; なぜ元記事が書かれたのか これも簡単。多くの人がそれを求めている(とアドビが判断した)からです(*)。 (*)これについては「いいねの数」だけで写真の価値を判断してしまっている問題があります。「視聴率」がテレビを駄目にしたようなことが繰り返されるのかもしれません。元ツイートの「猛省」は主にこのことを指していたつもりです。 さらに言えば、ネットでは個人が皆発信者になります。「テレビ」を「写真を撮る人、ひとりひとり」に置き換えてもいいのかもしれません。 もちろんフォトショップを売るのがアドビ的には最終目的ですが、ユーザーのニーズに最も敏感なのはサービスやプロダクトを提供する側。求められるものには忠実に応える。これが資本主義の世界で生き残るための王道なのです。 なので、この記事を世に出したアドビ社は責められるものではありません。「お客様にとって(自分たちにとっても)よかれと思ってやらせていただいたんですけど」というのが本音でしょう。 でも、それが納得いかないんで、編集子はこんなことを書いてるわけですけど。 何が納得いかないのか・桜へのリスペクト さて。自分は何に納得がいっていないのか。乱暴に一言で言い放つとこうなります。 何かを(安易に)手に入れることで、何かが失われている。 では、桜を派手にする技術を手に入れ、ソメイヨシノを濃いピンクにすることで、失われるものは何なのか。 今回の件では、それは「桜」という大いなる多様性を持つ樹木、その中でもソメイヨシノという圧倒的な人気を誇る品種、そしてそれらの木が都市部・郊外、あらゆる場所に植樹されてきた過去の歴史へのリスペクトではないかと思うのです。 桜は多種多様な品種があり、開花時期・花の色、形・花の付き方など様々。それらの違いを無視して濃いピンクに「レタッチ」するのはどうなのか。 Wikipedia ソメイヨシノ https://ja.wikipedia.org/wiki/ソメイヨシノ その中でも、ソメイヨシノ。この葉が出る前に開花し、限りなく淡く繊細な、日本の都市部に多数植樹され、多くの人に愛されている品種は、この時代のまさに今が植物種としてもピークかもしれません(*) (*)ソメイヨシノは比較的新しい(江戸時代以降)の交雑種で、いくつかの理由で明治以降各地に多く植樹され、日本の桜の代名詞になりました。ただし、この先も今のままである保証はまったくありません。現在育っている株が寿命を迎えた後、何がその後に植樹されるかしだいです。 満開のソメイヨシノ、ソメイヨシノの花吹雪の中で感じるものを「日本人の心」であると表現することは、それが近代数百年の歴史であったとしても、それなりに多くの共感を得ることができるでしょう。 濃いピンクの「映える」「桜らしい桜」ばかりを人々が望むようになってしまえば、数百年後の日本はそういった桜ばかりになってしまうのでしょうか? 文化と独りよがりの間にあるもの 「日本人の心」という「文化」は、特定の個人だけの思い込みや特定の小さなコミュニティでだけに閉じたものではなく、比較的広く受け入れられるものでしょう(それが何なのかというとまた別の話になるので省略します)。 でも、それはもっと広い視野で見ると、単なる日本という島国の中でだけ通用する価値観なのかもしれません。 https://twitter.com/tenmonReflexion/status/979083729648762880 また、時間軸もあります。ある文化が生まれ、育ち、広く受け入れられ、教科書に載るようになり、あるものは寿命を終え滅びてゆく。桜を愛する文化も、ナチュラルを指向する写真も、合成を是とするファインアートも、カジュアルなインスタ映えも、寿命があるのかもしれません(ないのかもしれません)。 桜を見て感じたことを表現しよう 弊サイトでは、基本的に「表現に禁じ手はない」「異なる考え方に対する寛容の姿勢を持とう」と繰り返し発信しています。その考えは変わりません。 今回のツイートは若干それとは違ったように受け止められたかもしれません。ただ、一番言いたいことはこれです。 あなたは何を見た? 何を感じた? どう写真で表現したい? 何を伝えたい? それを思うままに表現しよう。 そのために必要な技術を身につけよう。 桜を濃いピンクにしてたくさんのイイネをもらいたいという行動は決して否定しません(それは人間の根源にある承認願望です)。 でも、せっかく美しい風景が眼前にあり、それを写し撮ることができる素晴らしいカメラが手元にあるのなら、承認願望の奴隷にならずしても、美しいもの・面白いこと・楽しいことがもっともっと見つかるはずなのです。 本当に優れた芸術はほんの選ばれた天才しか生み出すことができませんが、豊かな文化は数多くの「普通の人」の中で育まれるものだと信じています。 編集部山口 千宗kojiro7inukai@gmail.comAdministrator天文リフレクションズ編集長です。天リフOriginal
文中の「多くの人がそれを求めている」のは、おっしゃる通り「文化的なもの」なのでしょう。
「TO DOやHOW(自分が具体的に何をすればよいのか)」に興味が行きすぎるあまり、「WHY」をスルーしてしまいがちなところも含めて、多くの人にとっては写真はもはや時間をかけて付き合う趣味ではなく、早く効率よく共感を得るための宿題のひとつとなっているのかもしれないですね。
以下、50年ほど前の文章です。とくにSNSや承認欲求を持ち出さなくても、写真の立ち位置って昔からあまり変わってないのかも。
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『家庭でとられる子どものポートレイトやスナップにでも、すでに思い入れがあり、できるだけ「可愛らしく」とろうとし、出来上がった写真が本物以上であることを期待しているという意味ですでに文化的である。』
(多木浩二 眼と眼ならざるもの 『まずたしからしさの世界をすてろ』(1970年)所収。『写真論集成』再録)
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この「文化的」と対になっているのは、写真のもつ機能的な指示関係(ある事物を指し示す透明な媒介としての記号)や非抽象性(芸術が持つ抽象性にくらべて、事実に近すぎるようにみえる)なんだそうです。