【特別企画】編集長、我が天文史を語る【ロングインタビュー(4)】
年末年始スペシャル企画、天リフ編集部が編集長山口千宗氏に迫るロングインタビュー第4回。
山口氏は「元天文少年」だった!秘められた自分史を語ります。
新年明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い申し上げます。
目次
筋金入りの天文少年だった
ー実は山口さんについてある情報を入手していまして・・これなんですが。
山口:ああああ(動揺する)、、、やめてください、それ!
ーなんでですか、自分についてもっとアピールしなきゃだめですよ。
山口:ああああああ・・・(あきらめの表情)
過去の栄光にすがるようでは人間は終わりだと思っているのですが、、、
ーでもしっかり捨てずに持っていたじゃないですかw
これについてしっかり語ってもらいます!
山口:はい。実はいつか天リフの宣伝で使おうと思って実家から確保してきましたw
これは中学三年の冬です。当時、かなり本気の天文少年でして、珍しかったのか結構「読者の天体写真」に入選させていただいていました。それで「全国の中学生の天文ファンに刺激を与えたい」という趣旨で、後に編集長になられた高槻さんが自宅まで取材にこられました。
天文メディアに接して変わったこと
ー天文メディアの「中の人」との初めての出会いだったわけですね。
山口:1979年ですから、もう40年近く前の話です。高槻さんは今「星爺」として業界のご意見番のようなお立場ですが、当時は若々しいカッコいいお兄さんでした。
自分としては、本や雑誌に書いてあることを忠実に守ってやることをやっているだけで何が凄いとかいう意識は全くなかったのですが、メディアがある市井の事実に光を当てて情報として発信するというプロセスに触れた初めての経験でした。
ー記事になって何か変わりましたか?異性にもてるようになったとか?
山口:いえ、ぜんぜん。学校でも話題になりましたが、人の噂もなんとやらといいますか、2週間もすれば普通の日常に戻りました。「あいつはこういう奴だったのか」ということを個別に説明しなくて良くなったというメリットはありましたがw
ーでも大きな刺激になったでしょう。
山口:はい。天文熱にますます拍車がかかりました。当時サクラカラーによるプリント写真の黎明期で、「次はこれを流行らせたいと思っているんですよ」と高槻さんにネガカラーのプリントによる写真を見せていただきました。「そうか、この人たちはトレンドを作る立場の人なんだ」と思ったことを今も覚えています。
ーでも失礼ながら申し上げると、純なお坊ちゃんが一生懸命仲間と田舎で天体写真を撮っている、という以上の印象に薄い記事ですね。
山口:そんな失礼な。でもまあ当たってると思います。いま読み返してみると、もう少しマシなことを言えば良いものですが・・なぜ星を撮るのが好きなのかとか、どんなことを目指したいとか。今なら「天文なう」に4枚セットで写真をアップしてもらえば済むような内容です。
天文雑誌の持っていた圧倒的な存在感
ー分子雲の超絶作品群で有名な三本松さんがこの記事を当時読まれていたそうですね。
山口:はい。三本松さんは天文に復帰後Facebookで親しくさせていただいているのですが、当時小学生でこの記事を見て燃えたそうです。
ーそういう意味では編集部の意図は当たったと。
山口:ある意味ではそうかもしれません。当時の天文雑誌はほとんど唯一の情報源で、毎月5日が来るのを指折り数えて発売と同時に買い、薄い誌面をそれこそ一字一句まで読んだものでした。
この記事を含め、当時からの天文ファンには天文雑誌の発信した情報が脳の隅々にまですり込まれていると思います。
この時代にメディアが持っていた圧倒的な存在感・・・それは天リフがどうあるべきかを考える上での大きな事例だと思っています。
ー「ある意味では」ということは、別の意味では違っていた?
山口:三本松さんの例で言えば、燃えたけど結局若年の身では荷が重すぎて止めてしまった、とのことでした。当時も今もですが、天文趣味、特に天体写真は機材だけでなくもろもろ大変なことでした。
「なぜ天体写真を撮るのか」に対する疑問
ー「遠征」にも行かれていたのでしょうか?
山口:始めの頃は103aEフィルムで今で言う「Hαナローバンド」を主に撮っていたので自宅からでも撮れたのですが、高槻さんにあんな凄いのを見せられたらもうカラーで撮るしかありません。
奈良の南に「大宇陀観測所」というものがあることを知り、その近くならきっと星が見えるだろう、ということでそこに通うようになりました。
バスと電車を乗り継いで2時間以上、往復1320円です。当時の天文雑誌のモノクロ写真の入選賞金は1000円。それよりも高い金額です。
ー値段まで覚えているとはwそれにしても結構な負担ですね。
山口:はい。赤道儀は自作、カメラは先輩からの借り物、天文以外の支出と誘惑を断ち切って全てのエネルギーを注ぎ込んでいました。挙げ句の果てに「平日」にも遠征に行くようになりました。夜明けまで撮影し仮眠、翌朝そのまま学校に行くわけです。
ーはあ・・・それは青少年として少し入れ込みすぎでは?
山口:まったくです。
高一の春だったと記憶しているのですが、翌日が体育祭の日に遠征し半徹夜のだるい体で翌朝学校に行った時のことです。とてもポカポカしたいい天気でした。学校に着くとグラウンドで皆が楽しく練習しているわけです。白いTシャツに薄く下着が透けた女子。その時思いました。青春だなあ。。でも「自分は一体何をしているんだろう」と。
天体写真は誰が撮っても同じ
ーそれは遅い性の目覚めでは?
山口:(顔を真っ赤にして怒り出す)いえ、違います、もっと前に目覚めています!あ、いや、本題です。
なんで自分はこんなことをしてまで星を撮るのだろう?それで誰よりも凄いものが撮れるならともかく、そうじゃない。フローライトや非球面を車に積んで畳平で自動ガイドをしている大学生や社会人のお兄さん、木曽の-25度の冬山で撮っている平林さんに勝てるはずもない・・
ーはあ・・屈折してますね。どこかのブログで似たような記事を読んだことがあります。
山口:茶化さないでください。。当時は至ってまじめでしたから。
この事件の前にも自分の中にはある疑問が巣くい始めていました。「天体写真は誰が撮っても同じではないか」もちろん同じ機材ならという条件は付きますが。
ーなるほど・・今の2つのお話、中二病の黒歴史の箱に入れておけばよかったのでは?
山口:そうかもしれない。
でも、そのことは僕の心の奥に「おり」のようにとどまり、腕の悪い歯医者の寸法の合わない詰め物のように僕を苦しめた。僕はいったい何をしているのだろう。
結局のところ、天体写真は誰が撮っても同じ宇宙の姿をそれぞれの機材で写し取っているのにすぎないのだ。
「可哀想な人」。彼女が言った。
好きだからやる。それ以上でもそれ以下でもない
ー何、村上春樹しているんですかw
山口:すいません^^、ファンなもので。
でも、当時は人生の大問題だったのです。それで考えに考えて、ひとつの答を出したのです。
ーどんな答えでしょうか。
山口:「ねえ、あなたは天体写真のことは好き?」
「君の方が好きだよ」
「ありがとう。でも好きだからやるんでしょう?それ以外に理由が必要なのかしら?」
「自分でもよくわからないんだ」
そして僕はその疑問と答を小さな箱にしまい、「中二病」と書かれた札を付けて庭の木の根元に埋めた。
そして35年が流れた。長い年月だ。
ーもういいです。へんな文体はやめてください。
山口:はい、もう終わりしますw
でも、この疑問は今も解決したわけではありません。小さな箱は掘り返しましたが開けてはいません。そして天リフを始めたのです。
ー次の話題にいきましょう。
天文学者を目指すも山に転向
ー大学は京大の物理だそうですね。
山口:はい。天文学者になって宇宙論を研究したいと思っていました。当時天文系の学科は東大と京大にしかありませんでした。上京するつもりは全くなかったので、京都を選びました。
ー大学では勉強されたのですか?
山口:仲間を4人集めて整数論のシミュレーションをしたり、アルコール分解の過程を繰り返し自分に人体実験していました。
ーなるほど。他には?
山口:高校生の頃に山で星を見たいと思って山岳部に入りました。その延長で大学でも山のサークルに入り、いつの間にか山がメインになってしまいました。大学6年間はほとんど山登り以外のことはしていません。
ーそう威張られてもw山登りは楽しかったですか?
山口:はい。元々運動が苦手なタイプたっだのですが、山登りで目覚めました。冬山から岩登りまで、海外遠征以外のひとおおりのことをやりました。当時は山登りは今のようにメジャーではなく、3K(暗い、臭い、汚い)の趣味だったのも合っていたようですw
ー真夏に3週間風呂に入らなかったというのは本当ですか?
山口:事実です。山でもですが、下界でも。風呂は贅沢でしたからw
関係ないようである話ですが、私の変態リスペクトは山登りの時代から始まっています。当時の「尖鋭」と呼ばれた山屋の本のリンクを貼っておきます。こういう人たちが産みだしたカルチャーが東京オリンピックに繋がっているのは、実に痛快です。
ーもう少し普通の人に分かるようにこの本を紹介していただけませんか?
はい。この本を読めば東京オリンピックの「スポーツクライミング」競技を10倍楽しめること請け合いです。
実は日本はこの分野では凄いんです。体操競技以上のレベルかもしれません。今では日本各地にクライミングジムができ、多くの人が楽しむようになりました。
しかし、その「前史」では(ちょうど私が熱心に山に登っていた時代です)社会から半分以上ドロップアウトした「山屋」を源流とする濃いマニアックなカルチャーがありました。作者の菊地敏之さんはその中でもとびきりの「変態」、もとい「尖鋭」です。
彼らがいかに、自ら「チンケ」と自嘲するような「ただの石」にかじりつきながら生き延びてきたのか、そんな中から「メジャーへの萌芽」が生まれすくすくと育ってきたのかが、ちょっと斜に構えた笑える文体で語られています。
中でも「クライミングで重要なのは技術ではなく態度である」という名言(迷言)がオチャラケも交えながら出てくるのですが、この言葉は分野を超えて通じるものでしょう。
ーなるほど。ぜひ読んでみたいと思います。
卒業研究はハレー彗星
ー大学6年間と言うことは修士まで進まれたのですか?
山口:いえ、留年ですw単位が自然に揃うのを待っていたら6年もかかってしまいました。そのうち半年は授業料節約のため休学していますし。今でも実は単位が足りなくて卒業できていなかった、みたいな夢を見ます。
ートラウマなんですね・・でも卒論は書いたんでしょう?
山口:ちょうど4回生の1986年のハレー彗星の回帰の年で、彗星ダストの偏光観測をしました。
当時は卒論は書かなくても良くて「課題研究」というグループ研究に属するだけでいいシステムでした。所属した研究室は「物理学第二教室宇宙線研究室」というところで、今は改組されて宇宙物理学教室になっています。「ときどきナガノ」の記事に書いた上松の赤外線観測所はこの研究室の施設でした。
ーまじめに観測したんですか?
山口:この課題研究だけはまじめにやりました。現在名古屋市科学館にいらっしゃる野田さんは同じグループでした。
赤道儀自作の経験を生かして?観測装置の図面は私が引きました。フォトダイオード1個、画素数1の観測装置なのですが、ADCと偏光板の制御、出力結果の記録・解析プログラムも書きました。後に就職後ソフトウェアの仕事に就くのですが、この経験がきっかけといえるかもしれません。
ー同期で偉い学者さんになった方はいらっしゃいますか?
山口:課題研究のグループ以外に学部に友達はほとんどいなかったのですが、お一人だけFacebookで友達になっていただけました。そう言えばハワイ天文台の台長さんは教養で同じクラスだった人でした。でもたぶんほとんど誰も私のことを覚えていないでしょうね。
生まれ変わったら天文学者になりたい?
ー院試は受けられたのですか?
山口:一応形だけは。それを親に対する留年の言い訳にしていましたし。半年ほどはまじめに勉強にしたのですが全く及ばずでした。
ー天文学者になれなかったことを後悔していますか?
山口:ずいぶんとムダな時間を過ごした気はかなりするのですが、そうしないと得られなかったであろう他の経験もいろいろできたので後悔はありません。
ー生まれ変わったら天文学者になりたいですか?
山口:研究者のコミュニティに入れてもらうための最初のハードルでドロップアウトし、以降は全く縁のない生活を送ってきたわけですから、そういうことはこれまで考えたこともありませんでした。
でも、昨年「天文宇宙検定」を受けるために概論的なことを少し勉強したのですが、当時可能性の一つとしでしかなかった宇宙の加速膨張が観測事実から示されていたり、宇宙の背景輻射を超精密に観測することで初期宇宙の姿をかなりのところまで推測できるようになっていたり、「ほー。そうきましたか」的な発見の数々を知るにつけ、それまで気がついてなかった天文学の面白さを再発見できた気がします。
ーこれからそういう方面の勉強もされたいと。
山口:若い頃に越えられなかったハードルを今さら越えるのは年齢的に時間的にも無理ですが、純粋な好奇心として、また天文学の世界にささやかでもお役に立ちたいという天リフ的な立場としても、やってみたいしやるべきだと考えています。
天文業界との関わり
ー就職するときに天文業界という選択肢は考えなかったのですか?
山口:いえ、全く。逆にリセットしてまったく関わりのないことをしたいと思っていました。最初に就職してから何度も転職していますが、その過程でも天文業界とは友人やクライアント先含めて関係することはほぼありませんでした。
ー現在の天文業界にまったく土地勘はないのですね。天リフのビジネスの上では困りませんか?
山口:むしろ「業界知識が全くの白紙の状態からのスタート」であることを強みにするしかないと思っています。ネットで知りうる範囲でいろいろと調べたり、復帰以降の天文関係の知人・友人から教えてもらったり話をお聞きする中で、この業界の成り立ちや他のビジネスとの比較から考えることはいろいろあります。まだ十分には消化できていないので今回お話するのはやめておきますが、いずれ別の機会で発信できればと思っています。特に「いかにして新規ユーザーにアプローチするのか」という点では、過去の経緯に縛られない発想が大事になると思っています。
ーそれは楽しみですね。期待していいます。
今回、なぜ天文少年になったのかのあたりもお聞きしたかったのですが、さすがに長くなってしまったのでここまでにしておきたいと思います。
山口:はい。
ー次回は、社会人になられてから脱サラするまでのビジネスキャリアについてお話をお聞きしたいと思います。今回はありがとうございました。
山口:こちらこそ、ありがとうございました。
https://reflexions.jp/tenref/orig/2018/01/01/3047/https://reflexions.jp/tenref/orig/wp-content/uploads/sites/4/2018/01/blog_import_5811962a920f62.jpghttps://reflexions.jp/tenref/orig/wp-content/uploads/sites/4/2018/01/blog_import_5811962a920f62-150x150.jpg編集長ロングインタビュー 編集長、我が天文史を語る 年末年始スペシャル企画、天リフ編集部が編集長山口千宗氏に迫るロングインタビュー第4回。 山口氏は「元天文少年」だった!秘められた自分史を語ります。 新年明けましておめでとうございます。 本年もよろしくお願い申し上げます。 筋金入りの天文少年だった ー実は山口さんについてある情報を入手していまして・・これなんですが。 山口:ああああ(動揺する)、、、やめてください、それ! ーなんでですか、自分についてもっとアピールしなきゃだめですよ。 山口:ああああああ・・・(あきらめの表情) 過去の栄光にすがるようでは人間は終わりだと思っているのですが、、、 ーでもしっかり捨てずに持っていたじゃないですかw これについてしっかり語ってもらいます! 山口:はい。実はいつか天リフの宣伝で使おうと思って実家から確保してきましたw これは中学三年の冬です。当時、かなり本気の天文少年でして、珍しかったのか結構「読者の天体写真」に入選させていただいていました。それで「全国の中学生の天文ファンに刺激を与えたい」という趣旨で、後に編集長になられた高槻さんが自宅まで取材にこられました。 天文メディアに接して変わったこと ー天文メディアの「中の人」との初めての出会いだったわけですね。 山口:1979年ですから、もう40年近く前の話です。高槻さんは今「星爺」として業界のご意見番のようなお立場ですが、当時は若々しいカッコいいお兄さんでした。 自分としては、本や雑誌に書いてあることを忠実に守ってやることをやっているだけで何が凄いとかいう意識は全くなかったのですが、メディアがある市井の事実に光を当てて情報として発信するというプロセスに触れた初めての経験でした。 ー記事になって何か変わりましたか?異性にもてるようになったとか? 山口:いえ、ぜんぜん。学校でも話題になりましたが、人の噂もなんとやらといいますか、2週間もすれば普通の日常に戻りました。「あいつはこういう奴だったのか」ということを個別に説明しなくて良くなったというメリットはありましたがw ーでも大きな刺激になったでしょう。 山口:はい。天文熱にますます拍車がかかりました。当時サクラカラーによるプリント写真の黎明期で、「次はこれを流行らせたいと思っているんですよ」と高槻さんにネガカラーのプリントによる写真を見せていただきました。「そうか、この人たちはトレンドを作る立場の人なんだ」と思ったことを今も覚えています。 ーでも失礼ながら申し上げると、純なお坊ちゃんが一生懸命仲間と田舎で天体写真を撮っている、という以上の印象に薄い記事ですね。 山口:そんな失礼な。でもまあ当たってると思います。いま読み返してみると、もう少しマシなことを言えば良いものですが・・なぜ星を撮るのが好きなのかとか、どんなことを目指したいとか。今なら「天文なう」に4枚セットで写真をアップしてもらえば済むような内容です。 天文雑誌の持っていた圧倒的な存在感 ー分子雲の超絶作品群で有名な三本松さんがこの記事を当時読まれていたそうですね。 山口:はい。三本松さんは天文に復帰後Facebookで親しくさせていただいているのですが、当時小学生でこの記事を見て燃えたそうです。 ーそういう意味では編集部の意図は当たったと。 山口:ある意味ではそうかもしれません。当時の天文雑誌はほとんど唯一の情報源で、毎月5日が来るのを指折り数えて発売と同時に買い、薄い誌面をそれこそ一字一句まで読んだものでした。 この記事を含め、当時からの天文ファンには天文雑誌の発信した情報が脳の隅々にまですり込まれていると思います。 この時代にメディアが持っていた圧倒的な存在感・・・それは天リフがどうあるべきかを考える上での大きな事例だと思っています。 ー「ある意味では」ということは、別の意味では違っていた? 山口:三本松さんの例で言えば、燃えたけど結局若年の身では荷が重すぎて止めてしまった、とのことでした。当時も今もですが、天文趣味、特に天体写真は機材だけでなくもろもろ大変なことでした。 「なぜ天体写真を撮るのか」に対する疑問 ー「遠征」にも行かれていたのでしょうか? 山口:始めの頃は103aEフィルムで今で言う「Hαナローバンド」を主に撮っていたので自宅からでも撮れたのですが、高槻さんにあんな凄いのを見せられたらもうカラーで撮るしかありません。 奈良の南に「大宇陀観測所」というものがあることを知り、その近くならきっと星が見えるだろう、ということでそこに通うようになりました。 バスと電車を乗り継いで2時間以上、往復1320円です。当時の天文雑誌のモノクロ写真の入選賞金は1000円。それよりも高い金額です。 ー値段まで覚えているとはwそれにしても結構な負担ですね。 山口:はい。赤道儀は自作、カメラは先輩からの借り物、天文以外の支出と誘惑を断ち切って全てのエネルギーを注ぎ込んでいました。挙げ句の果てに「平日」にも遠征に行くようになりました。夜明けまで撮影し仮眠、翌朝そのまま学校に行くわけです。 ーはあ・・・それは青少年として少し入れ込みすぎでは? 山口:まったくです。 高一の春だったと記憶しているのですが、翌日が体育祭の日に遠征し半徹夜のだるい体で翌朝学校に行った時のことです。とてもポカポカしたいい天気でした。学校に着くとグラウンドで皆が楽しく練習しているわけです。白いTシャツに薄く下着が透けた女子。その時思いました。青春だなあ。。でも「自分は一体何をしているんだろう」と。 天体写真は誰が撮っても同じ ーそれは遅い性の目覚めでは? 山口:(顔を真っ赤にして怒り出す)いえ、違います、もっと前に目覚めています!あ、いや、本題です。 なんで自分はこんなことをしてまで星を撮るのだろう?それで誰よりも凄いものが撮れるならともかく、そうじゃない。フローライトや非球面を車に積んで畳平で自動ガイドをしている大学生や社会人のお兄さん、木曽の-25度の冬山で撮っている平林さんに勝てるはずもない・・ ーはあ・・屈折してますね。どこかのブログで似たような記事を読んだことがあります。 山口:茶化さないでください。。当時は至ってまじめでしたから。 この事件の前にも自分の中にはある疑問が巣くい始めていました。「天体写真は誰が撮っても同じではないか」もちろん同じ機材ならという条件は付きますが。 ーなるほど・・今の2つのお話、中二病の黒歴史の箱に入れておけばよかったのでは? 山口:そうかもしれない。 でも、そのことは僕の心の奥に「おり」のようにとどまり、腕の悪い歯医者の寸法の合わない詰め物のように僕を苦しめた。僕はいったい何をしているのだろう。 結局のところ、天体写真は誰が撮っても同じ宇宙の姿をそれぞれの機材で写し取っているのにすぎないのだ。 「可哀想な人」。彼女が言った。 好きだからやる。それ以上でもそれ以下でもない ー何、村上春樹しているんですかw 山口:すいません^^、ファンなもので。 でも、当時は人生の大問題だったのです。それで考えに考えて、ひとつの答を出したのです。 ーどんな答えでしょうか。 山口:「ねえ、あなたは天体写真のことは好き?」 「君の方が好きだよ」 「ありがとう。でも好きだからやるんでしょう?それ以外に理由が必要なのかしら?」 「自分でもよくわからないんだ」 そして僕はその疑問と答を小さな箱にしまい、「中二病」と書かれた札を付けて庭の木の根元に埋めた。 そして35年が流れた。長い年月だ。 ーもういいです。へんな文体はやめてください。 山口:はい、もう終わりしますw でも、この疑問は今も解決したわけではありません。小さな箱は掘り返しましたが開けてはいません。そして天リフを始めたのです。 ー次の話題にいきましょう。 天文学者を目指すも山に転向 ー大学は京大の物理だそうですね。 山口:はい。天文学者になって宇宙論を研究したいと思っていました。当時天文系の学科は東大と京大にしかありませんでした。上京するつもりは全くなかったので、京都を選びました。 ー大学では勉強されたのですか? 山口:仲間を4人集めて整数論のシミュレーションをしたり、アルコール分解の過程を繰り返し自分に人体実験していました。 ーなるほど。他には? 山口:高校生の頃に山で星を見たいと思って山岳部に入りました。その延長で大学でも山のサークルに入り、いつの間にか山がメインになってしまいました。大学6年間はほとんど山登り以外のことはしていません。 ーそう威張られてもw山登りは楽しかったですか? 山口:はい。元々運動が苦手なタイプたっだのですが、山登りで目覚めました。冬山から岩登りまで、海外遠征以外のひとおおりのことをやりました。当時は山登りは今のようにメジャーではなく、3K(暗い、臭い、汚い)の趣味だったのも合っていたようですw ー真夏に3週間風呂に入らなかったというのは本当ですか? 山口:事実です。山でもですが、下界でも。風呂は贅沢でしたからw 関係ないようである話ですが、私の変態リスペクトは山登りの時代から始まっています。当時の「尖鋭」と呼ばれた山屋の本のリンクを貼っておきます。こういう人たちが産みだしたカルチャーが東京オリンピックに繋がっているのは、実に痛快です。 ーもう少し普通の人に分かるようにこの本を紹介していただけませんか? はい。この本を読めば東京オリンピックの「スポーツクライミング」競技を10倍楽しめること請け合いです。 実は日本はこの分野では凄いんです。体操競技以上のレベルかもしれません。今では日本各地にクライミングジムができ、多くの人が楽しむようになりました。 しかし、その「前史」では(ちょうど私が熱心に山に登っていた時代です)社会から半分以上ドロップアウトした「山屋」を源流とする濃いマニアックなカルチャーがありました。作者の菊地敏之さんはその中でもとびきりの「変態」、もとい「尖鋭」です。 彼らがいかに、自ら「チンケ」と自嘲するような「ただの石」にかじりつきながら生き延びてきたのか、そんな中から「メジャーへの萌芽」が生まれすくすくと育ってきたのかが、ちょっと斜に構えた笑える文体で語られています。 中でも「クライミングで重要なのは技術ではなく態度である」という名言(迷言)がオチャラケも交えながら出てくるのですが、この言葉は分野を超えて通じるものでしょう。 ーなるほど。ぜひ読んでみたいと思います。 卒業研究はハレー彗星 ー大学6年間と言うことは修士まで進まれたのですか? 山口:いえ、留年ですw単位が自然に揃うのを待っていたら6年もかかってしまいました。そのうち半年は授業料節約のため休学していますし。今でも実は単位が足りなくて卒業できていなかった、みたいな夢を見ます。 ートラウマなんですね・・でも卒論は書いたんでしょう? 山口:ちょうど4回生の1986年のハレー彗星の回帰の年で、彗星ダストの偏光観測をしました。 当時は卒論は書かなくても良くて「課題研究」というグループ研究に属するだけでいいシステムでした。所属した研究室は「物理学第二教室宇宙線研究室」というところで、今は改組されて宇宙物理学教室になっています。「ときどきナガノ」の記事に書いた上松の赤外線観測所はこの研究室の施設でした。 ーまじめに観測したんですか? 山口:この課題研究だけはまじめにやりました。現在名古屋市科学館にいらっしゃる野田さんは同じグループでした。 赤道儀自作の経験を生かして?観測装置の図面は私が引きました。フォトダイオード1個、画素数1の観測装置なのですが、ADCと偏光板の制御、出力結果の記録・解析プログラムも書きました。後に就職後ソフトウェアの仕事に就くのですが、この経験がきっかけといえるかもしれません。 ー同期で偉い学者さんになった方はいらっしゃいますか? 山口:課題研究のグループ以外に学部に友達はほとんどいなかったのですが、お一人だけFacebookで友達になっていただけました。そう言えばハワイ天文台の台長さんは教養で同じクラスだった人でした。でもたぶんほとんど誰も私のことを覚えていないでしょうね。 生まれ変わったら天文学者になりたい? ー院試は受けられたのですか? 山口:一応形だけは。それを親に対する留年の言い訳にしていましたし。半年ほどはまじめに勉強にしたのですが全く及ばずでした。 ー天文学者になれなかったことを後悔していますか? 山口:ずいぶんとムダな時間を過ごした気はかなりするのですが、そうしないと得られなかったであろう他の経験もいろいろできたので後悔はありません。 ー生まれ変わったら天文学者になりたいですか? 山口:研究者のコミュニティに入れてもらうための最初のハードルでドロップアウトし、以降は全く縁のない生活を送ってきたわけですから、そういうことはこれまで考えたこともありませんでした。 でも、昨年「天文宇宙検定」を受けるために概論的なことを少し勉強したのですが、当時可能性の一つとしでしかなかった宇宙の加速膨張が観測事実から示されていたり、宇宙の背景輻射を超精密に観測することで初期宇宙の姿をかなりのところまで推測できるようになっていたり、「ほー。そうきましたか」的な発見の数々を知るにつけ、それまで気がついてなかった天文学の面白さを再発見できた気がします。 ーこれからそういう方面の勉強もされたいと。 山口:若い頃に越えられなかったハードルを今さら越えるのは年齢的に時間的にも無理ですが、純粋な好奇心として、また天文学の世界にささやかでもお役に立ちたいという天リフ的な立場としても、やってみたいしやるべきだと考えています。 天文業界との関わり ー就職するときに天文業界という選択肢は考えなかったのですか? 山口:いえ、全く。逆にリセットしてまったく関わりのないことをしたいと思っていました。最初に就職してから何度も転職していますが、その過程でも天文業界とは友人やクライアント先含めて関係することはほぼありませんでした。 ー現在の天文業界にまったく土地勘はないのですね。天リフのビジネスの上では困りませんか? 山口:むしろ「業界知識が全くの白紙の状態からのスタート」であることを強みにするしかないと思っています。ネットで知りうる範囲でいろいろと調べたり、復帰以降の天文関係の知人・友人から教えてもらったり話をお聞きする中で、この業界の成り立ちや他のビジネスとの比較から考えることはいろいろあります。まだ十分には消化できていないので今回お話するのはやめておきますが、いずれ別の機会で発信できればと思っています。特に「いかにして新規ユーザーにアプローチするのか」という点では、過去の経緯に縛られない発想が大事になると思っています。 ーそれは楽しみですね。期待していいます。 今回、なぜ天文少年になったのかのあたりもお聞きしたかったのですが、さすがに長くなってしまったのでここまでにしておきたいと思います。 山口:はい。 ー次回は、社会人になられてから脱サラするまでのビジネスキャリアについてお話をお聞きしたいと思います。今回はありがとうございました。 山口:こちらこそ、ありがとうございました。 編集部山口 千宗kojiro7inukai@gmail.comAdministrator天文リフレクションズ編集長です。天リフOriginal
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