写真家の湯淺光則さんが攻めた?動画をアップされました。

この動画の一つ前に「本物の写真とは?」というタイトルで「合成写真」についての動画を投稿されていますが、その続編になります。

趣旨はこの3つ。湯淺さんが考える「これはなしでしょう」という写真について。個人的には合意する部分が多い話ですが、「反社会的」のうちの「犯罪」というカテゴリを除けば、個々の考え方によるグレーなゾーンが多く、この動画を見て反発を感じる人も一定数いらっしゃることでしょう(*)。

(*)YouTubeの評価で「良くないね」が3割弱ついているところにも現れています。

個人的な考えですが、ネットの世界で「炎上」を回避して一定の「安定」を求める限りは、「お花畑」にならざるを得ません。批判的な議論にはネット上の条件反射が過剰に発動するのが常です。推測ですが、一定の反発は承知の上で、ネット上で「健全な批判」がなされにくい現状に一石を投じようとされたのかもしれません。

動画の最後の方で「写真表現に意見をするなら、最低でも数十年は写真のことを考え抜いた上でないと、その資格はない」とする過激(*)な表現もあり、これには若者はみな反発することでしょう^^;;;

(*)「冗談ですけどね」というオブラート?にくるまれてはいます^^;;;

(C)原真「頂上の旗」より。山と渓谷社刊

全く違う分野の違う文脈ですが、自分がまだ18歳だった頃に上の画像の一文を読んでえらくムカついたことを今も覚えています。もう亡くなられましたが、その筋では有名だった登山家の原真さんによるものです。

この文章を書かれたときの原真さんはまだ40台半ばの「若造」wですが、今改めて読み返すと、彼の意図することはなんとなくわかる気がします。

(C)原真「頂上の旗」より。山と渓谷社刊

嗚呼、若い頃の自分に読んで聞かせたい。いや、読んでいたか^^;;; その時は全く響かなかったということですね。

世代にせよ政治信条にせよ写真観にせよ、考え方が深いレベルで異なる人との間のコミュニケーションは、いつの時代も難しいようです。しかし「歳を取っても若さを維持している大人」が、意志をもって何かを伝えようとすることに対しては、耳を傾ける意味はあるものと感じています。正しいのかどうか、与するかどうかは別にして。

もうひとつ「被写体に対する愛情」というテーマも重要だと思います。しかし、「愛情」とは、壊れやすく、伝わりにくく、それでいて「恋」という盲目でやっかいなフェーズもあります。愛情のありなしを他人様の写真に対してあれこれいうのは、少なくとも自分には無理だし一番避けたいところです。ネット上の限定された場所ではそんな「愛情論」はよく見かけますが、堂々と公開の場で言及された湯淺さんは「勇者」だと思いました。

自分がそれを好むかどうかを抜きにすれば、被写体に対する愛情のない写真も私は「あり」だとは思いますが、被写体に対する愛情が感じられれば、その他の全ては「まあいっか」というのが、今の自分の立ち位置です。

(C)先崎学「世界は右に回る」日本将棋連盟刊 大崎善生氏の解説も名文です。

これまた全く分野も文脈も違う話で、これだけではたぶん何のことかわからないと思いますが、天リフを始めて以来、記事を書くときにひとつの標にしている文章が上の画像です。文章(表現)は「自分の自尊心をなだめる」ためではなく、大好きな人、大好きなことの「良いところ」を伝えるためにやるものだ。いつもそう心がけています(*)。

(*)できているかは別。若造だしwww